柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「受け継がれる祈り」 創世記26章12〜25節

 聖書の神を呼ぶとき、特有の表現があります。『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』(マタイ22章32節)です。神は人とかかわって呼ばれることをよしとしてくださるのです。このように表現される場合、それは神とのかかわりが代々続いていくことを表わしています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものです。


Ⅰ.神の祝福は受け継がれていく

 イサクを主人公とする記事で貫かれている章ですが、彼が飢饉から逃れるためにゲラル地方に住んだことから始まります(1節)。ここはぺリシテ人の地域、すなわち戦闘的な民族に囲まれた世界でした。そこにおいて神はイサクを祝福する約束をされました(2〜5節)。そして、敵意に囲まれた危険な状況にあるにもかかわらず、大いなる神の祝福をうけたことによって妬みを買い、寄留者としてぺリシテ人の地に住んでいたイサク一族は、迫害されるようになりまし
た(13〜16節)。それに対してイサクは、あえて抵抗せずに、そこを去ってゲラルの谷に天幕を張って住んだのです。そして、アブラハムの時代に掘られた井戸を見つけ、いったんは塞がれていた井戸を再び掘り返して水を得、さらに湧き水の出る井戸を見つけました(17〜19節)。以後、ゲラルの羊飼いたちが、その井戸を奪いにくる旅ごとに、イサクは手放して行きました(20〜21節)。
そのようにして、争いを好まないイサクは、ようやく争い・敵意から解放されて、広く平安が支配する場所を得たのでした(22節)。
 しかし、イサクはそこに留まりませんでした。感謝の意を込めて『ベエルシバ』に行くのです(23節)。するとその晩、臨在の主は彼に現れて祝福してくださいました。注目したいのは、『わたしのしもべアブラハムのゆえに』と、イサクが祝福を得ているのは、父アブラハムのゆえなのです。ところで、なぜベエルシバなのでしょうか。そこは、どんな場所なのでしょうか。父アブラハムもゲラルの谷に住んだことがあり、その時も井戸をめぐってゲラルの王と争いがありましたが、寄留者であるアブラハムは苦慮する中で神に守られたのでした(21章25〜34節)。それは、『べエル(井戸)シバ(七つ)』名づけられた和平協定の場所でしたが、アブラハム個人にとっては、より深い意味がありました。神がなされた御わざに対して、信仰の記念樹を植え、『永遠の神、主を呼んだ』と祈りをささげた場所なのです。イサクは、その『ベエルシバに上った』のです(23節)。そこでは、イサクの期待や信仰をはるかに上回って、臨在の主が現れ、父アブラハムのゆえに、息子イサクもまた祝福を受け継ぐのでした。


Ⅱ.神の祝福は機械的には受け継がない

 第一は、イサクはその所に自分で上っていって、祭壇を築き、祈ったのです(25節)。親の祈りではなく、自分の祈りで祝福を受けるのです。のみならず、祝福を自分のものにするために、自分もまたそこに天幕を張って、井戸を掘ったのです。それは、約束された神の祝福を時間と生活をかけて自分のものにしようとする「信仰の努力」でした。
 その井戸は、再び掘られたものでした(18節)。父アブラハムの死後、塞がれていた井戸でしたので、放っておくと、どんなに地下に豊かな水脈があっても塞がれてしまうのです。しかし、塞がれても、水脈は地下の深いところから変わらず流れています。これは、私たちの信仰も同じで、神の豊かな祝福の水脈が塞がれているならば、掘り返して、水源を探し当てるのです。
 さらに、イサクはゲラルの谷に広がる新しい湧き水を次々に自分で見つけました(19節)。自分の手で開拓し、新しい祝福の井戸を掘り当てるのです。その最後の名が『シバ(シブア=契約)』と呼び変えて、新しい意味づけをしました(33節)。これは、単に人と人の和平協定ということではなくして、神の契約の真実さを表わしているのです。自ら祈り、自分の信仰と労で恵みの水脈を当てて結んだ神との契約を指しています。
 私たちは一人ひとり、老人アブラハムであり、またイサクです。それは、年齢的な区分をしているのではなくて、自分の信仰に目覚めているか、目覚めようとしているかです。霊の親の祈りゆえに目覚めます。そして、その手で信仰と祝福を引き継ぐのです。


                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)