柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「心のめがねを外そう」 マルコ6章1〜6節

 私たちは、今、主イエス・キリストが十字架にかかられてから約2000年後の時代に住んでいます。私が信仰をもって、もう二十数年がたちます。その中で、最近までずっと考えてきたことは、私がキリスト時代に生きていればよかったのになぁ、ということでした。というのは、そうしたら、あいたい時にはすぐにでもイエス様に出会えて、もっともっと主を信じることが出来たのに、という考えからでした。
しかし、最近思うのです。もし私がイエス様の時代に生きていたら、本当に主を信じることが出来ただろうか、と。つまり、もしかしたら主をこの目で見たとしても、私はそれを信じることが出来なかったのではないか、と考えるのです。あたかもこの箇所のイエスの郷里の人々のように…。
 この箇所に登場する「郷里の人々」は、イエスと三十年来のつきあいでした。主のことはもう手に取るように分かっていたはずです。私たちのことを考えても、三十年来の友人、同郷の友ともなると、その性格も、生活も、人となりも、あらゆる面でよく見知っているはずでしょう。しかし、そのような主と同郷の人々は、本当の主を見ることが出来なかったのです。なぜでしょうか。


1. 彼らのもっていた先入観・偏見のゆえに

 私たちは、しばしば友人・知人を教会に誘います。お誘いしてすぐに教会へと足を運んで下さる方もいれば、何年も誘ってようやく来られる方もいます。しかし、その前に、お誘いしたいと思っても様々な理由で誘えなかった方も多いのではないかと思うのです。その理由の一つが「先入観」というものです。わたし自身がそうでした。それは、その人のことをよく知っていればいるほど強烈なものです。「あの人を教会へ誘っても…(来てくれないだろう)」「あの人は…(絶対に救われないだろう)」といった具合です。
 この箇所の登場するイエス様と同郷の人たちも、実はイエス様を先入観をもって見ていました。「あれは大工だ」「あれはマリヤの子だ」だから奇跡など起こせるはずはない、というのです。その人たちが聞いていたうわさを心の中で打ち消すのです。私たちは、そのような「心の中の色眼鏡」を取り去る必要があります。


2. 彼らの不信仰のゆえに

 もう一つの色眼鏡は「不信仰」という名の色眼鏡です。この故郷の人たちは、イエス様の働きを既に見聞きしていたでしょう。特に、前の箇所では「ヤイロの娘のよみがえり」「長血の人の癒し」というような噂はすでに故郷へも聞こえていたことでしょう。そしてまさにその主人公が目の前にいるのです。私だったらワクワクすると思うのですが、イエス様の過去を知っている郷里の人にとってはそうではなかったのです。彼らはその噂を信じなかったのです。
3.これらの色眼鏡をはずすために
 これらの色眼鏡をつけていることの結果は「力あるわざを行うことが出来なかった」(5)というものでした。イエス様でさえもすることの出来ないことがあるのです。
 では、それらの結果に至らせる「色眼鏡」を外すにはどうしたらいいのでしょうか。その解答を導くヒントが前の箇所に記されています。それは「信仰」です。しかも、その信仰とは、5章25節以下の「長血をわずらっている女性」がもっている「信仰」です。すなわち「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろう」という信仰なのです。この女性は、イエス様に直接会ったことはありませんでした。ただ噂でしか聞いたことはなかったのです。それでも彼女はその噂をたよりに群衆を押し分けて主のみころもにさわったのです。たとえ噂であっても、そのうわさを信じたのです。しかし、主の郷里の人は既に主に会っていたのです。目で見、耳で聞き、実際に手でも触れているのでしょう。しかしそうであっても心の中の曇りのゆえに主を信じることが出来なかったのです。私たちは、この主に触れたなら、主の中に飛び込んでいったならば救われる、という信仰をもって、この週を歩みたいと思うのです。

                      (説教者:西大和キリスト教会牧師 宮沢清志)