柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「教会、聖なるもの」 使徒行伝4章32節〜5章11節

 聖霊降臨によって誕生した教会は、手厳しい弾圧があったにもかかわらず、大胆に福音宣教が前進していきました。本日の聖書箇所において、教会が真実な交わりを保ち続けるためには、どこに焦点を置くべきかについて問いかけています。


Ⅰ.「宣教」の交わりがある 4章32〜37節

 『いっさいの物を共有していた』と、バルナバを紹介しつつ、実際の生活において持ち物を分かち合って共有する「美しい交わりの教会」の姿があます。これをもって原始共産体制と位置づけて、個人の所有は認められなかったと主張するものではありませんし、規則化されて義務づけされるものでもありません。
 では、そのような共有生活へと導いた要因は何だったのでしょうか。
①『信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして』と、霊の一致の結果です。『すべてを共有していた』(32節、新改訳聖書)と、主なる神から受けた全ての祝福と恵みを共有していたのです。こうした霊的一体感が、一つの群であることを意識させ、具体的な生活面においても共有するようになったのです。
②一切の所有権は『主』のものであるとの信仰告白の具体的な表明です(4章24節)。キリストの贖いによって神との交わりを回復された者は、一切のものを神と共有する者になったということであり、その管理を神から任されたにすぎないのです。ですから、神の恵みは欲しいままに享受するが、託されたものは神の自由にさせないというエゴに生きることではありません。
 以上のような霊の一致と献身と愛の配慮の交わりに生きる教会は、必然的に『非常に力強く』福音宣教に生きる教会となるのです。福音宣教こそ、教会の交わりの目的なのです。


Ⅱ.「聖別」された交わりがある 5章1〜11節

 『ところが』、このような宣教の交わりが豊かな愛の共同体に、サタンが忍び寄ってきました。これは、スキャンダルを暴露するような興味本位のものではありません。教会がさらに主なる神の御旨にかなったものとなって前進するために、聖霊の導きの中で、時には大きな手術の痛みを乗り越えていくことを明らかにされたのです。
 アナニャとサッピラ夫婦は『共謀して』、偽りと欺きの罪を犯したのです。問題は売却金の一部だけ献げたことにあるのではなく、偽って、いかにも全部であるかのように見せかけたことなのです(8節)。こうしたことに対して、何と厳しい審きか、愛と赦しはないのかと思われますが、このような審きを招いたほどの重い罪とは何だったのでしょうか(Ⅰペテロ4章17節)。
①『自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺』いた罪です(3節)。聖霊の声を退け、『主の御霊を試みる』ことをしたのです(9節)。
②『人を欺いたのではなく、神を欺いた』罪でした(4節)。神は侮られ、だまされるようなお方ではありません(ガラテヤ6章7節)。
③愛の共同体である教会を欺いた罪です。二人の行為は、他者のことも福音宣教のことも顧みないで、まんまとサタンに心を奪われてその計画に加担してしまったのでした。悔い改めて、真実を語る機会を与えられているにもかかわらずに(7節以後)。


 私たちは、どれだけ教会を「聖なるもの」と自覚して信仰生活をしているでしょうか。
 「聖なるもの」を抜きに「宣教」はなく、「宣教」に至らない「聖なるもの」もまたないのです。


                   (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)