柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「宣教の始まり」ルカ4章14-21節

エス様が伝道を開始された当時イスラエルは、ローマ帝国の支配のもとにありました。ローマによって税金が課せられ人々の暮らしはまったく楽なものではありませんでした。人々は救い主を待ち望んでいました。


1,世の人の望みと神の与えられるもの

当時の人々の望みは、この世での生活が楽になることと、ローマ人をユダヤから追い出し自分たちの国を確立することでした。いわば現世の利益を求める望みであったのです。
21世紀の現代でも同じです。アフリカのチュニジアで大きなデモがありました。大統領は国外に逃げました。エジプトでもデモが行われています。
神様の与えて下さる救いは、この世で権力を振るったり、金持ちになることではありません。それは二の次のことです。むしろ私たちに大切なことは、永遠のいのちに預かることです。
エス・キリストは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)と言われました。最も大切なものはいのちです。それを私たちに得させるためにキリストはこの世に来られたのです。


2,聖霊に満たされる

エス様は荒野でサタンの試みにあわれました。人間の欲やこの世の栄華をみせられてサタンから試みを受けられたのです。しかし、それらのものをことごとく神の御言葉によって退けられ、勝利されました。
しかし、イエス様の働きはそれだけではありませんでした。単に自分がサタンに勝利されるのではなく、福音を人々に宣べ伝えることでした。しかも18節に「貧しい人々」とありますが、山上の垂訓でも「心の貧しい人は幸いである」と語られている人々に福音を伝えることでした。虐げられこの世には何の希望も見いだせない人に、救いの良きおとずれを知らせに来られたのです。
エス様は会堂で御言葉を語られました。イザヤ書61章を開いて語られたのです。それは希望の福音であり救いの福音でした。人々はあがめたとあります(15節)が、それは外見だけのものではなく、イエス様ご自身御霊に満たされて聖霊の輝きがあったからではないでしょうか。「わたしの上に主の御霊がおられる」と言うことがここに成就したのです。私たちも同じように聖霊に満たされる必要があります。私たちが信仰を言い表すことでも必要です。「誰でも聖霊によらなければイエスを主と告白することはできない」(?コリント12:3)とある通りです。
聖霊が働かれるとき人々はキリストを信じ神をあがめることができるのです。


3,主の恵みの始まり

イザヤ61章1,2節は救いの始まりの預言です。「今日、…実現した」とキリストは宣言されました。キリストを通して心の貧しい人々には救いの福音を、罪に囚われている人々には赦しを、虐げられている人には解放と自由をキリストはもたらされたのです。サタンの束縛から罪の縄目から私たちを自由にし、神との豊かな交わりと供給を得るためにキリストは私たちのところに来られました。
「見よ、今は恵みの時、救いの日である」(?コリント6:2)とはまさにキリストによって始められたのです。福音宣教には力があります。人のたましいを滅びから救い、神の御心を行わせることができるのです。
キリストはご自分の身をもって十字架の上で私たちの罪を赦して下さいました。それは私たちが罪に打ち勝つためです。キリストの十字架の身代わりによって私たちは赦され、神の子とせられたこのことのすばらしさ、喜びをますます聖霊によって与えていただき、私たちも救いを大胆に証しするものとさせていただきましょう。

              (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)