柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい歩み」ローマ6章1-4節

今日はローマ書6章1〜4節から、「新しい歩み」と題してお話しします。

いくら年が改まっても私たちの心が新しくならない限り、私たちは新しい生き方をすることはできないと思います。聖書の中にも「豚は洗ってもまた泥の中に転がる」(?ペテロ2:2)とあるように、私たちの心の性質が変わらないと新しくなれないのです。
しかし、私たちは、自分の意志や力ではなく信仰によって新しくなれるのです。

1,罪からの救い

6章1節には罪のことが出てきます。ある人は「日本の文化は恥の文化であり、西洋の文化は罪の文化である」と言いました。簡単に言えば、「人に見られると恥ずかしいから悪いことをしない」と言えると思います、中には悪いことをしても、人に迷惑をかけなかったらそれで良いではないかと言い訳する人もあるのです。
しかし、私たちの心には良心があり、自分自身をとがめることがあるのです。 「だれかが見ていなくても、二人の人が見ています。それは神様と自分の良心です。」と言われたことばを思い出します。
私たちはやがて神の前に立つときがあります。その時、わたしは一度も罪を犯したことがないと言えるでしょうか。誰も言えません。すべての人は罪を犯したために神の栄光を受けることができず、罪の報いを受けるときがあるのです(ローマ3:23、6:23)。
その罪の裁きから私たちを救うためにキリストは来られ、十字架に罪を負い身代わりとなって死んで下さいました。そして
私たちは赦され、天国に行ける約束が与えられたのです。キリストの十字架によって私たちのすべての罪が赦され、天国に行けるのです。

2,罪からの自由

しかし、罪が赦され天国への約束が与えられても、もう一つの問題があります。それは、神様を信じたら罪を犯さなくなるのか、悪いことをしなくなるのかと言うことです。今、祈祷会でアブラハムについて学んでいます。彼は神様を信じて従って行きましたけれども、罪を犯し失敗しました。それでもなお彼は神様を信じ続ける、神様に従い続けたのです。神様は彼の信仰を義と認められました。
神様は私たちの罪を十字架で赦されました。神の愛と赦しは永遠に変わることはありません。しかしだからといって、私たちは罪の中にとどまっていいのでしょうか。聖書は私たちにそのことを投げかけています。神様が赦して下さるからと言って、いつまでも罪の中にとどまると、自分の心が疲れ果て、心も麻痺してしまうことがあります。私たちは罪の束縛、罪の奴隷から解放される必要があるのです。
寒暖計のように、私たちの心が上がったり下がったりしているとそれだけで、魂のエネルギーを消耗し神を信じるものとしての力がそがれてしまうのです。私たちは罪の束縛・力に打ち勝ち、自由にならなければなりません。

3,キリストにつくバプテスマ

罪に勝利する方法は一つだけあります。それは罪にかかわらないものになることです。罪に捕らわれない、罪に苦しめられない。どうすれば可能でしょうか。
聖書は私たちにバプテスマがあると言っています。バプテスマとは洗礼のことです。イエス・キリストもヨルダン川バプテスマを受けられました。そして、イエス・キリストの救いを信じる私たちもバプテスマを受けます。バプテスマには大切な意味があります。それは古い自分に死に、新しくキリストと共に生きる、私たちはキリストと共によみがえらされる意味があります。
しかし、実際のところ私たちはどれほどそのことを意識しているでしょうか。ほとんどないかもしれません。しかし、神様を信じて生活すると、自分の心の醜さや罪深さがわかってきます。それは正常です。救われたから、神様を信じたから解ってくることなのです。神を基準にして考えるようになったから解ってきたのです。新しく生まれなければそのことも解らないと思います。
しかし、罪の悩み苦しみから私たちは救われなければなりません。「キリストの死にあずかるバプテスマ」とあります。しかも「キリストとともに葬られた」とあるのです。それは、肉体の死ではなく、自我の死を意味しています。私たちは、肉体ではなく、自分の自我が死ねば罪の悩みから解放されます。死んだ人はいくら褒めてもニコリともしませんし、腐しても怒りません。死んだ者は死んでいるのです。出てきたらそれはお化けです。パウロは「わたしはキリストとともに十字架に付けられた」(ガラテヤ2:20)と言いました。私たちの自我もまたキリストとともに十字架に付けられる必要があるのです。キリストとともに死んで、古い自我は葬り去らなければなりません。そして、わたしの内にキリストが生きて下さる。それが、4節に出てくる新しいいのちです。今までの古い自分で生きるのではなく、わたしのためにご自分を十字架に付けられた御子を信じる信仰によって生きるのです。

それが、新しい生き方歩みなのです。もはやわたしが生きるのではない、キリストがわたしの内に生きておられるのである(ガラテヤ2:20)と告白し、古い自我に死んで勝利と喜びの中に生きたパウロのように私たちも生かしていただきましょう。

          (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)