柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「イサクを捧げよ」創世記22章6-14節

創世記22章はアブラハムにとって最大の試練のときと言えると思います。
私たちの人生の試練を乗り越える秘訣は何かと言いますと、自分の最も愛するもの「イサクを献げる」ところにあります。そのことを御言葉の中から学んでいきたいと思います。

1,すべては神からのものである

アブラハムはもともと、カルデヤのウルすなわち今のイラクあたりの出身でした。そこは偶像礼拝の盛んなところであり、彼の父も偶像にかかわる仕事をしていたようです。
その中から、彼らは約束の地カナンへと向かったのです。そして、アブラハムは全能の神が示されるところに従い、祝福の基となったのです(創世記12:2)。彼はその後も、飢饉に遭いエジプトに下ったり、カナン人の地に住まわなければならない事がありました。しかし、その都度神様は彼を助けられ、彼を通して祝福がもたらされるものとなったのです。彼は周りの異邦人たちからも尊敬される人でした。
彼の唯一の願いは、自分の跡継ぎ、子どもが与えられることでした。そして、神様は彼に約束されたのです。それは、星の数ほどに子孫を与えるとの約束でした。彼はそれを信じました。そして神はその信仰により、彼を正しいすなわち義と認められたのです。ですから、私たちが神の前に正しいと認められることは、よいことを行うことではなく、神様が約束されたことを信じること、これ、義と認められることであり、私たちの救いとなるのです。
そういう意味では、信仰とはすばらしいものです。全能の神様の約束を信じるなら必ずそのようになる。そこから、希望が湧き、私たちは失望に終わることはありません。
旧約聖書ヨブ記がありますが、ヨブは族長時代の人と言われています。彼もまた神を畏れ敬う人でした。自分の息子や娘が罪を犯していないだろうかと犠牲を献げる人でした。ところがなんと、彼はすべての財産を失い、息子娘を失うときがありました。しかし彼は「主は与え、主はとりたもう、主はほむべきかな」と信仰に立つ人でした。そして最後に彼は2倍の祝福に預かったのです。
アブラハムもそういう意味では、同じく信仰に立つ人でした。それ故に彼もまた、神様に愛され祝福される人であったのです。


2,神に従う

アブラハムは百才のとき、息子イサクが与えられました。アブラハムとその妻サラにはまさに大きな喜びであり、幼い我が子を与えられて家族は笑いが絶えなかったと思います。
しかし何と神様はその息子イサクを献げよと命じられたのです。アブラハムにとっては人生最大の信仰の試練でした。それでも、彼は神様に直ちに従ったのです(3節)。彼だけではありません。イサクも同じでした。彼もまた父と共に神に従ったのです。彼はもう幼子ではありませんでした。もうすでにりっぱな青年です。7節8節に親子の会話があります。イサクは薪を背負わされていました。しかし、全焼のための羊はどこですかと、イサクが尋ねたとき、アブラハムは「神ご自身が備えて下さる」と答えたのです。
これは、イエス・キリストの十字架の予表であると言われています。キリストは父なる神様に十字架を担わされて、従い通されました。イサクもまた父のことばを信じて、従って行ったのです。彼にも同じ信仰があったのです。


3,神は備えられる

二人は告げられた場所に行きました。それはモリヤの山と言われるところで、今エルサレムのその場所にはモスクが建っています。
9節10節を見ると、アブラハムはイサクを全焼のいけにえとして献げていることがわかります。彼は確かにイサクを神様に献げたのです。ヤコブ2:21には「行いによって義と認められた」とありますが、まず心に信仰がなければそのことは行いとして現れてきません。信仰があったからこそ、献げることができたのです。その信仰とはヘブル11:19の信仰です。復活の信仰です。
私たちの今必要なことは、死んでも生きるという復活の信仰です。私たちは、この世に生きてやがて死んでしまうことがすべてではありません。よみがえりがあり、新しい永遠のいのちをいただいて、神の御国で生きる希望があるのです。アブラハムにはその信仰がありました。永遠のいのちに対する希望があったのです。
彼は何にもまさって神を愛しました。最愛の息子イサクにまさって、イサクを与えて下さった神を愛したのです。そして、神様はその愛の故に、たとえ自分がイサクを全焼のいけにえとして献げても息子をよみがえらせてくださると信じていたのです。
そして、それはヨハネ3:16で成就したのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神ご自身が私たちに御子イエスを私たちの罪の赦し、贖いとして与えて下さったのです。
私たちも、いかなる試練が与えられても信仰によって勝利と喜びに預かりたいと思います。主はすべてを備えて下さいます。

             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)