柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「異邦人への福音」エペソ3章1-7節

今日キリスト教は全世界に宣べ伝えられています。このエペソ人への手紙を書いたパウロは、かつてキリスト教迫害者でした。しかし、復活のキリストにであって生涯が変えられたのです。

この手紙は、エペソの人たちに書かれました。エペソはアルテミスの大神殿で有名な所です。日本で言えば門前町です。そこにアルテミスの女神がまつられ、町の通りでは、銀細工人たちが模型を作って商売をしていたのです。また、そこではクリスチャンに対する大迫害が起こりました。しかし、今アルテミスの神殿も女神の像もありません。跡形もなくなりました。それは信ずるに足りないものです。しかし、イエス・キリストこそが私たちにいのちと希望を与えて下さる方なのです。


1,パウロの働き

パウロはどんな働きをしていたでしょうか。それは、異邦人にキリストを宣べ伝えるものであったということです。異邦人とはなにか、元来はユダヤ人でないものが異邦人でした。神を信じない、また神の恵みに与っていない人たちです。しかし、それはまた私たちに取っては福音を聞いていない人たち、神の救いの恵みに与っていない人たちと考えることができます。
パウロは、自分を「異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった」と言っています。福音宣教のために、またイエス・キリストにあって、外見から見るなら囚人のように不自由であり、虐げられているように見えるものであると言っています。しかし、彼は逆に、「神の恵みによる私の務め」(3節)そして7節を見れば、「神の力の働きにより、神の恵みの賜物によって、福音に仕える者とされました」と証ししています。神の力があれば、また恵みに満たされているなら神様から与えられた奉仕を全うすることができます。神の務めは言い換えると、神の力また賜物がなければできないものです。
今日、教会の奉仕に関しても同じです。神様は奉仕をしようとする者に、神の力と賜物を与えて下さるのです。それが、奉仕の祝福です。奉仕をする者には、しない者には与えられない神様の特別な恵みが与えられるのです。そして、奉仕は可能となるのです。
救いは、どんな人にも平等に与えられます。しかし、奉仕の力、その恵みはそれぞれに異なって与えられるのです。ですから、私たちは特別に神の恵みに与りたい、さらに勝るところの祝福を受けたいと望なら、神に仕えるべきです。その奉仕を通して、神様は素晴らしい恵みを与えて下さるのです。その代表者がいわばパウロです。彼はこれを牢獄で書きました。しかし、彼ほどまた恵みに満たされた人はいません。彼のように用いられた人は他にいません。彼は、福音に仕えることにより素晴らしい恵み、神の祝福に与ったのです。


2,神の救いの計画

奥義という言葉が出て来ていますが、神により示されなければ人間に理解できないことです。それは何かというと十字架の救いです。1章7節では「この方にあって、その血による贖い、罪の赦し」とあります。すなわち、イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪をまったく赦して下さるということです。
このことがいわば長い間、隠されていた、人間には理解ができなかったのです。それを神様は啓示された、人間にわかるように明らかにして下さったのです。それは、聖書によって理解できるのです。
神からの救いを、理解させて下さるのは御聖霊です。御霊により神の真理は明らかにされます(5節)。しかし、前の時代―旧約の時代に於いては、今と同じようには知らされていなかったのです。特別な人たち、選ばれた人たちしか知らされてはいませんでした。
しかし、今は誰にでも知らされています。あのペンテコステの日以来、聖霊が豊かに働かれるときとなったのです。今は聖霊の時代といわれています。このときにこそ私たちは福音をまだ聞いたことのない人たちに告げ知らさなければならないのです。福音宣教は、神様の命令です。私たちがそれに従うか否かその結果は、やがてのときに明らかにされます。
そして神様は、異邦人もユダヤ人も一つにされるという驚くべきことを行われます。私たちに取っては、先に救われたクリスチャンと今まだ救いに与っていない未信者それぞれが一つにされるという驚くべき神の御業です。それは2:15において言われた、「ご自分において敵意を廃棄された」という業です。
私たちには、それぞれの隔ての壁があるのではないでしょうか。誤解や偏見、軽蔑といった隔ての壁をキリストの十字架は打ち破って下さるのです。まだ救われていない人たちへ福音が宣べ伝えられる。私たちもその働きを担う者とさせていただきましょう。


              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)