柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の御前に生きる」1コリント7章17-24節

1世紀の時代、ローマでは奴隷制度がありました。主人の命令を聞かなければ殺されることもありましたし、ひどい扱いを受けることもありました。もちろん苦しい状態から、自由人になることを願っている人も多くいたことでしょう。しかし、パウロは意外なことを語っています。


1,召された時の状態にとどまる。

パウロは17節20節で、召されたときの状態のままでとどまっていなさいと語っています。すなわち、自由人であるなら自由人のままで、奴隷であるなら奴隷のままにとどまっていなさいと言ったのです。それは、不公平ではないか、みんな自由人になるべきではないかといわれるかもしれません。
パウロは、割礼のことを引き合いに出して説明しています。信仰の父アブラハムは神との契約のしるしとして割礼を受けました。それは、神より選ばれているもののしるしでありました。ユダヤ人は特にそのことを重んじていました。自分たちは神に選ばれた、特別な民であると誇りを持っていたのです。しかも、旧約聖書にそのことは記されています。そして、パウロの伝道する中にも、救われて契約の民に加えられたものは、信仰の父アブラハムのように割礼を受けなければいけないのだと主張するユダヤ人クリスチャンたちもいたのです。もちろん、パウロも割礼を受けていました。
しかし、彼はそれを誇りとしていたでしょうか。救われる前はそうだったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じ救われてからの彼は変わったのです。19節を見るならば、彼は「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬこと」とあっさりと片付けているのです。18節には詳しく、「割礼を受けていたなら、跡をなくしてはいけない、割礼を受けていなかったら、受けてはいけません」と命じているのです。キリストを信じて救われたものは、もはや割礼からは解放されているのです。それは、取るに足りないことなのです。割礼に救いの力があるのではないのです。ですから、奴隷か自由人か、それも神様の目から見るなら大きなことではありません。
それでは神様は私たちに何を願っておられるのでしょうか。19節に「神の命令を守ること」とあります。それを神様は願っておられるのです。神の命令とは何でしょうか。マタイ22:37〜39で言われている、神を愛すること、人を愛することです。これが律法の要約であり、私たちの守るべきことです。


2,神の御前で生きる

そして、その現実を歴史は証明しています。イエス・キリストを信じて救われたものが武器を取って戦い、勝利したことはありません。むしろ多くのものがいのちを献げ殉教を選んでいったのです。コリントの教会では奴隷も共に礼拝に出席していたでしょう。パウロは「それを気にしてはいけません」と言っています。私たちも、人と比べると劣っていると思ってはいけませんし、もっと素晴らしい人間にならなければいけないと思う必要はないのです。
召されたときのままで、神の前にいることが大事なことです。自分を自分の努力で変える必要はありません。むしろ自分がそのような中から救われて、今あることを感謝すべきです。なぜなら、私たちは、キリストの十字架の贖いにより罪赦されて神の子となりました。天国ではキリストと共に神の相続人です。私たちに受けるべき豊かなものが天国で約束されているのです。天国ではすべてが自由人です。心から神をほめたたえ賛美できるのです。
ですから、私たちははかないこの世の望みを抱いて生きるのではなく、輝かしい朽ちることのない永遠の御国に生きることを喜ぶものとさせていただきましょう。

         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)