柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ペンテコステの恵み」使徒2章37-42節

教会の暦ではペンテコステの日と言うのがあります。一般にはなじみはないのですが、私たちにとってはクリスマスやイースターに並ぶ大切な日です。
もともとは、大麦の刈り入れを祝うお祭りでした。しかし、この日はさらに意味の深い大切な日となったのです。


1,救いの恵み

37節には、ペテロの説教を聞いた群衆たちが、「心を刺され」とあります。なぜ彼らは心を刺されたのでしょうか。ペテロの語ったことは、救い主キリストのことです。イエス・キリストは何も罪を犯されなかったのですが、不法の者たちの手により十字架につけられ殺されたのです。そのことに関して、ペテロは「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と語ったのです。おそらく群衆の中には、ピラトの裁きのときに、十字架につけろと叫んだ者がいたでしょう。
しかし、問題は「十字架につけろ」と叫んだ、群衆だけのことではないのです。キリストはただ、彼らのためだけに死なれたのではないのです。キリストの十字架は私たちすべての者のためであったのです。なぜなら私たちは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言われているとおり神の栄光・恵みから離れた生活をしていました。このままでは、私たちは自分の罪ゆえにこの世とともに永遠の滅びにいってしまうからです。
ペテロの説教を聞いた人たちは、自分が神に対して罪を犯していることがわかったのです。このままでは、自分の犯した罪ゆえに永遠の滅びに行ってしまう、どうすればいいのかと心を刺され、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねたのです。
私たちが救われるために何が必要でしょうか。第一のことは、このままでは死んでしまう、ということがわかることです。そのことがわからなければ、わからないうちに滅びにいってしまうからです。癌の恐ろしさはどこにあるかと言えば、痛みがない自覚症状がないところに恐ろしさがあるのです。早期発見が、生きることの決め手になるのです。罪も同じです。自覚症状がなければ、ますます悪が増大し、取り返しのつかない結果となるのです。
ですから、私たちの心に自覚症状が与えられることは幸いです。それが、悪いことであることがわかり、離れることができます。罪を捨て去ることができます。ペテロは「悔い改めなさい」と勧めました。悔い改めるとは、向きを変えること180度方向転換することです。今までは、自分中心に自分の得になることしか考えなかった、それを改め、すべてのものを造られ生かされる神に立ち返ることです。
罪がわかるなら次は、赦しを得ることです。そのために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいとペテロは勧めました。なぜ、キリストの名前なのでしょうか。キリストの名前には権威・力があるからです。
「御子イエスの血がすべての罪より我らをきよめる」(?ヨハネ1:7)と約束されているのです。私たちは、罪が赦されなければ永遠の滅びにいってしまうのです。私たちは救われなければなりません。


2,勝利の恵み

死に対し震えおびえていた弟子たちが、エルサレムの町の中で立ち上がり、大胆に十字架のキリストを語りました。なぜ、それが可能だったのでしょうか。
彼らは神ご自身である聖霊を受けたからです。聖霊が彼らに臨まれたとき、彼らは力を受けてキリストの証人となったのです(使徒1:8)。クリスチャンの生活は洗礼だけでは十分ではありません。私たちもまた、あの弟子たちのように聖霊を受けなければならないのです。ペテロは「賜物としての聖霊」と言いました。神様からプレゼントとして与えられます。もちろん、誰にでも救われた人に与えられますが、それは救いのように自動的にすべての人と言うわけではありません。「神である主がお召しになる人々に与えられている」とペテロは言いました。ですから、救われて良かったというだけではなく、さらに神に私たちは近づかなければなりません。神に召されているという自覚を持ってさらに近づかなければならないのです。すなわち、心の飢え渇きです。もっと良きものを求めるということです。このままでは自分はだめだ、さらに魂が引き上げられ、恵みに満たされたいという、いわば聖なる渇望・飢え渇きが必要なのです。自分はこれでいいのだろうか、このままでは満足できない、もっとイエス様に似たものになりたい、寛容であり、もっと積極的に人を愛したい。私たちは、聖なる渇きを持って求めるべきです。ペンテコステ前に弟子たちは祈りました。「みな心を合わせ、祈りに専念していた」(使徒1:14)とあるとおりです。私たちも、さらに切に求むるべきです。祈るべきです。求めるものに主なる神は良きもの、御聖霊を与えると私たちに約束しておられるのです。
そしてなんと、ペンテコステの日にバプテスマを受けたものイエスの弟子となったものが3,000人その日に加えられたとあります。願わくば私たちも、この地上にある日、大勢の人が救いに預かる姿を見たいものです。全能の主は必ずなしてくださいます。それを信じて、ますます祈り求めようではありませんか。


           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)