柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「わたしに何をしてほしいのか」マルコによる福音書10章46〜51

 悩みの中から、主イエスのあわれみにすがり、叫び、祈るバルテマイの姿に、今日、このように叫ぶことのできるお方を知っているか、また持っているかと問われます。


Ⅰ.主イエスのあわれみを求める 46〜51節

 主イエスにとって最後のエリコを通過される時の出来事です。そこには盲人で乞食であったバルテマイが『道ばたにすわって』いました。群衆は『ナザレのイエス』と言っただけでしたが、彼は『ダビデの子イエスよ』と呼びかけたように、人々がどう見ようと「イエスは主なり」と言い表しています。このお方に対して心底から『あわれんでください』と叫び続けています。彼は、神の方から備えてくださった出会いのチャンスであることを知って、妨害・制止・邪魔者扱いされてもめげないで執拗に叫び続けています。ともかく彼は、エリコの入り口でも出口でも求め続けたのでした(ルカ18章35節、マタイ20章29節)。
 バルテマイは、主イエスとの関わりをいただける資格のないことを知っていました。あえて関わり合いが許されるとしたら、主イエスからの一方的な「あわれみ」しかないことを認識していたからです。
 このような求道の叫びを主イエスは無視されません。ついに、この叫びは主イエスに届きました。「本当にこのお方の元に行ってよいのだろうか」との不安の中にあった彼は、『喜べ(安心しなさい)、立て、おまえを呼んでおられる』との招きを受けたのですから、しきりに急いで主イエスに近づくのでした。その時主イエスは彼に、『わたしに何をしてほしいのか』と問われました。それに対して、『見えるようになることです』と、自分の願い・求めを的確に告げています。
 キリスト教はご利益宗教ではありませんが、しかし観念的なものではなく、個々人が抱えている一番の悩みを主イエスに叫ぶことを求められます。主イエスはしばしばその「人の願い」に答えることにより、その人の心と魂の目を開かれるお方です。


Ⅱ.主イエスのあわれみを信じる 51〜52節

 なぜ、主イエスは『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねてくださるのでしょうか。そうしていただく何の資格もないのに―――。そうしなければならない熱い願いが神の側にあるからです。その理由はただ一つ、神は愛だからです。
ご自身の独り子イエス・キリストを十字架にかけなさるほどに、私どもを愛されているという理由以外にありません。
 その意味でも、人間の叫び・願い・求めが、主イエス・キリストの救いをもたらし、教会が造られたのではありません。むしろ、神の願いがあって、聖書が記され、救い主のみわざがなされ、人を用いて救いが届けられ、教会が建てられたのです。従って、主イエスに対する信仰があるところに、神のあわれみは発動されるのです。『行け、あなたの信仰があなたを救った』と、信仰によってのみ救いに与るのです。
 あわれみを受けたバルテマイは、『たちまち見えるようになり、イエスに従って行った』とありますが、主イエスが進まれる道端にすわつていた彼が、主イエスの道の中に入れられていったということです。これは、キリストを見る霊の目が開かれ、新しく造り変えられた人生、生活と価値観が変化し、キリストと共に歩み、そして従う歩みとなったのです。見えるということから一歩進んで、主イエスに従いゆく人生こそ、日々の深い恵みと福音の喜びを体験する歩みとなるのです。



(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)