(明野キリスト教会での伝道説教)
「Ⅰ am so happy in Christ」(ヘレン・ケラ―)と、自分はキリストにとって、かけがえのない、愛されている「ひとり」であるとの幸いを、一人ひとりが体験したいものです。
イエス・キリストは、そのように招き、あなたを捜しておられます。
Ⅰ.ひとりの人格ある者として
ここに登場する「ザアカイ」という人物を見てみましょう。当時の『取税人のかしら』は、恐喝まがいの税徴収の責任者で、人々から疎遠にされ、それに『金持』と私腹を肥やしていたので軽蔑されていたようです。また、三ヶ国語をマスタ―していたインテリでもありました。一見社会的には豊かに見えましたが、本当に大切な無くてならないものを持っていなかったのです。自分の存在価値を物や業績において、人間関係においていなかったために、『群衆にさえぎられて』いたのでした。また、「ザアカイ」との名前は、純潔という意味があり、周囲の期待は大きいが、現実は名前負けしているとのジレンマの中にあったようです。『背が低かった』ことによるコンプレックスもあったのではないでしょうか。何よりも、当時のユダヤ人社会において、取税人は罪人と同じで、神の審きの中にあると思われていたので、その恐れが彼を支配していたのでした。
こうしたザアカイの状態を一言で言うと、『失われたもの』だったのです(10節)。それは、本来あるべきところにない状態、迷っている状態でしあり、私たち現実の状態ではないでしょうか。不安で孤独に耐えられない状態です。生きる意味・価値を知らず、どこに向かって生きているのか分からない状態です。それは結局、創造主であり、いのちを与える愛なる神から離れて、背いて生きている状態なのです。
そんなザアカイのところに、イエス・キリストが訪れてくださり、語りかけてくださったのです(5節)。今も、私たち一人ひとりを、かけがえのない人格ある者として重んじてくださり、捜し出してくださり、声をかけ、出会いを与えてくださるお方こそ、イエス・キリストなのです。
Ⅱ.無条件の愛をもって
『急いで下りてきなさい』と招かれる主イエスです。これは、愛をもって
ザアカイをそのまま受け入れ、交わりたいと願っておられるのです(5節後)。
一人ひとり、この愛の招きをお聞きして、疑い、無関心、不信仰、高ぶりという木から下りることが求められています。『急いで』とありますから、考え込んでいる必要はありません。
その時、ザアカイは、自分の本当の姿=真相を見せられました。これまでの不正と罪を償おうとする彼の悔い改めを、あなたはどう受け止めますか。人は自分で自分を変えることはできません。まして他者を変えることは不可能です。一人ひとりが、主イエスの無条件の愛の招きの中でしかできないのです。
ザアカイの友となり、救い主となられたイエス・キリストを見てください(9~10節)。この救いの極みこそ、イエス・キリストの十字架の救いです。この十字架における主イエスの赦しの祈りと(ルカ23章34節)、執り成しの中に(同43節)それを見ます。ザアカイは、キリストご自身とその御わざを心から信じて自分にあてはめ、ありのままの自分を任せ、安んじています(同40〜42節)。『きょう』とは(19章9節、23章43節)、何という速やかな、また幸いな、そして永遠に続く救いの招きでしょうか。主イエスは、「あなた」の過去のことを問うてはおられないのです。あなたを捜しておられる主イエスは、この愛の救いの中にあなたを招きいれようとしておられるのです。自らと、その人生と永遠を、この救い主に任せませんか!
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)