柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「破れの狭間に立つ」出エジプト記32章30〜34節、詩篇106篇23節

 民を率いて40年間も荒野の旅をするモ―セの歩みは、壮大であっても孤独、
挑戦と混乱に満ちた人生で、いつも神との会見の天幕、神と交わりの場所がありました。
 本日の聖書の箇所もモ―セの祈りです(31〜32節)。それは、罪を犯し神に逆らう民と、その民を審いて滅ぼしてしまおうとされる神との間に立った、モ−セのとりなしの祈りです。それを背景として『詩篇106篇19〜23節』が歌われています。この破れの狭間に立つモ−セの姿は、どのようなものだったのでしょうか。


Ⅰ.主のところに戻る

 あの紅海における奇跡的な神の救いを見て、まだ数週間しか経過していなかったにもかかわらず、あたかも神がおられないかのような背信行為をとった民と、優柔不断なアロンがいます(1節,6節)。その事態を最初に見られたのは、神ご自身であり、そのことをモ−セに告げておられます(7〜10節)。それに対してモ−セは、実に理性的に、寛容に嘆願しています(11〜14節)。あたかも神を諭すかのように静かに落ち着いて訴えています。彼のどこにそんな余裕があったのでしょう。実は、ここで冷静に振舞うことができたのは、まだモ−セが民の罪の実態、罪の真相を見ていなかったからです。言わば、実情を知らずして祈ったということです。
 次に、民が偶像の周りで戯れる姿を目にし、罪の現場を実際に見たとき、モ−セは完全に理性を失いました(19〜20節)。そして、自分の独断で、罪に陥った民を処刑しました(25〜29節)。罪の深刻さを知らなかったときには、とりなしもできました。愛をもって振舞うこともできました。しかし、民の堕落した姿を見たとき、失望し、理性を失い、激しい憤りへと発展したのです。
 その翌日、モ−セは冷静さを取り戻し、再び神の御前に立っています。そして、罪の現状を知った彼が、冷静さを取り戻してとりなしています(30〜31節)。
 私たちも、誰かのために祈る、誰かの罪をとりなす、誰かの課題や問題を代わって祈らせていただく、そういう場合に、必ずと言ってよいほどに、こういう段階を通るのではないでしょうか。ですから、現状に失望せず、問題や課題を投げてしまわないで、もう一度取り直して、今度はさらに深く実態をつかんで、主のところへ戻っていくのです。


Ⅱ.自分のいのちを置く

 このモ−セの祈りで、ダッシュのところまで祈ったとき、彼は口を噤んでしまったのでした。民の罪が鮮やかに、そして深々と巡ってきた途端に、祈りを続けることができなくなったのです。これ以上祈り続けられない、それがダッシュの意味するところではないでしょうか。しかし、続いてモ−セの口から出た祈りは、自分の生命そのものも、神との交わりも、神が備えてくださっている永遠のいのちも投げ出す祈りでした。まさに、破れの狭間に自分のいのちを置いたのでした。彼らの罪に自分を重ねて、彼らの罪の結果を自分が背負ってもよいと、神に申し出る祈りです。
 この祈りに、救い主イエス・キリストの十字架上でのとりなしの祈りを思い起こします(ルカ23章34節)。このお方こそ、私たちの罪の現場をご覧になられて、罪の実態を、その深刻さをご存知で、神と私たちの破れの狭間にご自身のいのちを入れてくださったのです。このゆえに、私たちの救いの道が開かれたのです。
 さて、私たち自身も破れの狭間に立ち祈りますが、破れの大きさに気づけば気づくほど、問題の大きさが分かれば分かるほど、自分の無力を知れば知るほど、間に入ることも、祈ることもできず、重い問題に圧倒されるものです。そして、これは自分が関わることではない、自分の力量をはるかに越えていると思うのです。私たちは、破れの狭間に立つことを避けて通ることができます。しかし、神と私たちの破れの狭間に立って、それを避けないで救いの道を開いてくださったイエス・キリストは、こう語りかけておられます。「あなたも、私と共にとりなせるか、破れの狭間に立って」と。


                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)