柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「破れ口に立つ」 詩篇106篇19-23節

8月30日に国政選挙が行われましたが、7月の失業率が5.7%そして新型インフルエンザの流行と大変な状況にあります。この状況で私たちはどうすべきだろうかと思います。
詩編の106編を開きました。ここにはエジプトからイスラエルを救われる神の姿と、その神に信頼しない不従順の民イスラエルの姿そして、その民をとりなすモーセの姿を見ることができます。


1,この世では試練がある

私たちがたとえ神を信じ救われても、この世に生きる限り試練があります。イスラエルの民はエジプトで奴隷となり、暑さの中にレンガを作る仕事をさせられました。それは重労働でした。彼らは叫びを上げ、神に助けを求めたのです。神は彼らの叫び祈りを聞かれました。私たちもそれと同じように、神に助けを祈り求めなければなりません。祈りこそ、私たちが困難から救われる方法です。神様助けて下さいと率直に祈りたいと思います。
そして、神様は彼らの祈りを聞かれ指導者モーセを立てられました。モーセはエジプトの王女の子として育てられ、指導者としての素養を身につけることができました。彼が生まれたとき、男の赤ちゃんは殺される大変なことが起きました。モーセは川に流され、王女に拾われたのです。モーセという名前は水から引き上げるという意味があります。もしそのことがなければ、イスラエルの民はエジプトの苦しみから救われることはなかったかもしれません。それは偶然の事ではなく神の救いの計画でした。私たちがこの世で試練に遭うことは決して偶然の事ではないのです。そこには原因がありまた結果がありますが、もし私たちが苦しみに遭うとき神に祈るなら、神は答えて下さいます。あのイスラエルの民が救われたように私たちもこの世の苦しみや悲しみ不安や恐れから必ず救われます。


2,信仰には戦いがある

イスラエルの民はモーセに率いられ、エジプトを脱出しました。しかし、紅海を渡ったその先は、すぐに約束の地ではなかったのです。そこは荒れ地でした。何もないところです。それで彼らは神に対して、不平不満を言ったのです。
私たちも救われたらすぐ、バラ色の人生になるかといったらそうならないと思います。やはり苦しみや、試み、つらさを経験することがあります。それでは何が違うのか。それは、信じることができると言うことです。自分を救って下さった神様がおられる。それを信じることができるのです。たとえ自分が弱くても、神様はぜったいに助けて下さる。見捨てられない。その信仰が与えられるのです。そしてそれは、聖書が証明しています。神に選ばれたイスラエルの民は小さな民でした。それが生き残り、今現代にもユダヤ人は生きています。第二次世界大戦ホロコーストで600万人のユダヤ人が虐殺されましたがそれでも滅びませんでした。今も数的には小さい民族ですが、世界的には大きな力があると思います。アインシュタインなど優秀な人もいます。それはまさに、神の選びと計画にあると思います。それは私たち自身が、聖書を通し歴史を通して神の救いを知ることができるのです。
紅海が裂けて真っ二つにわれ、そこをイスラエルの民が通ったのは神話ではありません。まさに奇跡が起きて、イスラエルの民は救われたのです。荒野の旅も神様の守りと助けがありました。しかし中にはつぶやき不平を言って滅ぼされるものも出てきました。
その滅びの原因になったのは偶像礼拝です。19、20節にもあるようにイスラエルの民は偶像礼拝を行いました。しかし、神はわたし以外に神々があってはならない。偶像を造ってはならないと命令されました。(出エジプト20:3,4)ところがイスラエルの民は自分の弱さに負けて、偶像を造り拝んだのです。私たちも目に見えるものを頼ろうとする弱さがあります。神に祈らないで、手っ取り早く助けられるものに頼ろうとする弱さがあるのです。しかし私たちは、だれが本当に助け命を与えて下さるのか知らなければならないのです。21節に「彼らは自分たちの救い主である神を忘れた」とありますが、私たちも気を付けなければなりません。生活に追われ忙しさにかまけて、まず神を第一とすることを忘れてはいけないのです。
22節に、神がイスラエルを救われるためになされた大いなる働きのことが記されていますが、それを忘れてしまったのです。神様はそのようなものを滅ぼすと言われました。私たちはどうでしょうか。神様の救い、わたしを救って下さった方を忘れてしまうことはないでしょうか。


3,破れ口に立つ

神は救いの恩をも忘れ去るイスラエルを滅ぼそうとされましたが、その前にモーセが立ち上がったのです。彼はその破れ口に立ち、神にとりなしをしました。モーセの故に、イスラエルは滅びませんでした。
このことは私たちに何を示しているのでしょうか。それまず、私たちが今「破れ口に立つ」ということです。いわば私たちがモーセの立場にあり、モーセのようにとりなしの人とならなければならないということです。破れ口に立つことは簡単ではありません。それこそ命がけのことです。オランダでハンス少年が堤防の小さな穴を見つけたとき、自分の手を入れて堤防の決壊を防いで町を救ったという話がありますが、まさに私たちは身を挺して、破れを防ぐ、これ以上被害が大きくならないように、滅びに向かわないように、モーセのごとく神の前に立って祈らなければならないのです。
そしてもう一つ大切なことがあります。それはイエス・キリストが、その破れ口に立ってとりなして下さると言うことです。
十字架の贖いによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちをとりなして下さったのです。このキリストがわたしと共にいて下さる。キリストがとりなして下さるのだと信じて、私たちは破れ口に立たせていただきたいと思います。
そして、神は憐れんで下さり、もう一度祝福の回復を与えて下さる。そのことを期待しましょう。


                  (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)