柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの涙と叫び」 ヘブル5章7-10節

9月最初の日曜日を振起日礼拝と言っていてときがありました。それは信仰を奮い起こすということの意味があります。もう一度、神様の前に私たちの信仰を奮い立たせていただき、神からの力を与えていただきたいと思います。
この聖書の箇所には地上におられたイエス・キリストの姿が語られています。私たちが目標とするところは、イエス・キリストが生きられたように生きることです。すなわちキリストに似たものとなると言うことです。キリストはどのようであったでしょうか。


1,父なる神に祈られた

エス・キリストは人となってこの世に来られた方です。しかし、私たちを救うために私たちと同じになられました。私たちにとっては、高い崇高な理想を仰ぎ見るより、身近な助けが与えられる方が幸いです。ですから、イエス・キリストは神の栄光の位を捨てて私たちのところに来て下さったのです。それはただの見せかけではなく、本当に弱い人となってくださいました。その現れは、十字架に掛けられる前に祈られた祈りに表されています。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ 22:42 )
まさにそれは、血の汗がしたたり落ちるほどの激しい叫びと涙の祈りに違いなかったと思います。
私たちは苦しみにあったときにそのように祈るではないでしょうか。私たちもまた、本音で、神様の前に建前の祈りではなくて、キリストのように心を注ぎだして祈りたいと思います。神様は必ずその祈りを聞かれます。


2,従順を学ぶ

エス・キリストは神であり、万物の創造者です。すべての者を従わせる力のある方です。しかし、その方が、私たちと同じ弱い人間となられました。それには理由があります。弱い私たちの悲しみや苦しみを知るために、その悩みから私たちを救うために同じ人になられたのです。私たちはなかなか人の弱さや苦しさが分かりません。しかし、キリストは、私たちの弱さを本当に知っておられます。なぜなら、私たちと同じになって下さったからです。ただ私たちと違うところが一つだけあります。それは父なる神に従順であったことです。私たちは従い得たでしょうか。できなかったと思います。あのゲツセマネの園で血の汗を流されて祈られたとき、父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」で祈りは終わったのではありません。そのあとに「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカ 22:42 )そのように祈られ、そして、そのことができるようになったのです。それは、自分の思いを捨てて父の御心に従われたからです。自分がいけにえとなり、罪人の罪の代償となって自分を献げることに従われたのです。もしこのイエス・キリストの従順がなければ私たちの罪の赦しはありませんでした。私たちは永遠に呪われた者となったと思います。ただ御子キリストの十字架の死にまで従う、その従順によって私たちは、救われたのです。


3,真の救い主

キリストは私たちに永遠の救いを与えて下さる方です。この世の宗教は御利益宗教です健康にも金持ちにもなれるでしょう。しかし、永遠の命を保証してくれません。ただキリストだけが私たちに永遠の命を与えて下さるのです。それはイエス・キリストが私たちの身代わりとなって罪を負い、十字架に死んで下さったからです。キリストの救いは死から逃げようとする、逃避的なものではありません。むしろ死に立ち向かい、死を乗り越えていく勝利の救いです。なぜならキリストは死からよみがえられました。死に打ち勝ち、復活されたのです。そして弟子たちに現れ、天に昇られました。
それは私たちにも、勝利の人生を与えるために、父なる神の右にあって私たちをとりなして下さる、励まして下さるに他ありません。キリストは今も私たちを受けいれ、罪を赦して下さり、キリストにある豊かな恵、愛、喜び、永遠の命の希望を与えて下さるのです。


                     (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)