柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主はあなたを守る方」 詩篇121篇1-8節

この詩篇は表題に「都上りの歌」とあります。詩篇120−134の15の詩は「都上りの歌」となっています。ユダヤ人は毎年エルサレムの神殿に詣でる必要がありましたが、その巡礼の旅の道中で、これらの詩篇を歌ったと言われています。
今日の私たちも人生の旅路を歩んでいます。ジョン・バニヤンの「天路歴程」のように、私たちは天国への旅路の途中であるわけで、これらの詩を私たちは歌いつつ、この信仰に立ちつつ歩んでゆくべきなのです。


1.助けはどこから(1,2節)

巡礼の旅は、決して楽なものではなく、険しい小道や、淵や谷間、野獣や盗賊の潜むような山々を越えての旅です。そこで人々は旅の不安を抱きます。「私の助けはどこから来るのだろうか」と。私たちも人生においてその旅を全うするために助けが必要です。私たちは前途の困難を思うとき、「私の助けはどこからくるのだろうか」、「どのような助けが私にあるのだろうか」と不安に包まれることがよくあるのではないでしょうか。
しかし、詩人はここで主への信頼を告白しています。「私の助けは、天地を造られた主から来る」と。主は天地を造られたお方、全能者であって無から有を創造されたお方です。このお方からこそ助けは来ると信仰を告白しています。それは「神には何も出来ないことはない、このお方なら、わたしの直面する困難においても必ず助けてくださる」という信仰です。創造主こそ救い主です。それ以外には本当の救いはありません。この世の中は自分たちの問題を解決するために、この世の方法を試し続けています。政治、経済、社会科学、心理学、精神分析など。問題解決の鍵を自分のうちや、周囲の世界に見出そうとしています。しかしこの詩人は、人間の助けは主なる神からだけ来るということを断言しました。主こそ、天地の造り主、すべてのものの起源でありすべてを統べ治めておられるお方です。目の前の試練ではなく、試練をも支配していてくださる主に目を向けることができる人は本当に幸いです。耐え難い試練の中でもその試練を見つめるのではなく、しっかりと創造者なる主を見上げることが、試練の中でも勇気と平安が与えられる最大の秘訣です。天地を造られた神こそ、わたしたちにとって唯一まことの希望、唯一の確かな助けです!
だから祈りましょう!助けは主から来るのです。


2.まどろむことなく守られるお方(3,4節)

主はあなたの足をよろけさせず。(3節)
「足」がぐらつかされたりすると人生はそこから崩れていってしまいます。旅路が険しく、山の斜面に続く急な坂道をたどらねばならない時があります。また、わなに足がとらわれそうになったり、躓いたりする危険があります。しかし、主は、たとえ困難な状況の中にあっても、その足を支え、ぐらつかせず、歩ませて下さるのです。そしてそれは、気まぐれなものではありません。
あなたを守る方は、まどろむこともない。(3節)
主は見張りのように見守っていてくださいます。見張りは危険、困難をいち早く察知して見逃しません。人間は時に居眠りし、まどろみ、見過ごしてしまったりしますが、神はそうではありません。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(4節)
神様は私たちのために寝ずの番をしてくださるのです。病気の時に母親が一睡もしないで付き添って看護してくれた思い出があるかもしれません。それほどの真実な愛をもって神様が私たちのすべてを見守ってくださっていることを示しています。私たちの人生に起こる様々な出来事のすべてを寝ずの番をして神が見守ってくださっておられるのです。良いことも悪いことも、喜びも悲しみも、神様は知らなかったとか、神様が見ていなかった、あるいは聞いてなかった、関係ないと言われることは決してありません。試練や困難に直面したとき、神はわたしのことを見捨ててしまったのかと思えるようなときも、神は、寝ずの番をして下さっているのです。すべては神様の手の中にあり、すべてが人知をはるかに越えた神様のみこころの中におかれているのです。
神に信頼し従う者は、いつも次のように告白できるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロ−マ8:28)


3.おおう陰として守られるお方(5,6節)

主は、あなたを守る方、主は、あなたの右の手をおおう陰。(5節)
守りを「おおう陰」として表現しています。神様は常に身近にいて、一人一人を助け守ってくださるお方です。
「右の手をおおう」とあります。右の手は基本的には、戦うにも仕事をするにも利き腕です。利き腕は特に、その人特有のすぐれた資質や賜物や働きを表わしています。右の手は、その人の命、人生そのものです。主は、私たちの右の手を覆う陰となって、私たちのすべてを守って下さいます。このように陰となって守ってくださるその守りが、次の6節にあります。
昼は太陽があなたを打つことがなく、夜は月があなたを打つことがない。
昼は太陽がじりじりと照って、気をつけないと日射病になってしまいます。夜は月が打つというのはぴんと来ないかもしれませんが、この地方では、月の光をまともに受けると病気になると考えていたようです。ギリシャ語では、癲癇(てんかん)という言葉は、月に打たれるという言葉から来ています。
 イスラエルの民がエジプトを出るとき、主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれました。エジプトの軍隊が近づいてきた時、後ろに回って、エジプトの軍隊との間に入って民に近づかせないようにして神様は民を守ったのです。いつもおおう陰のようになって守って下さるお方です。主はちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、私たちをご自分のみ翼の陰に隠れこめよと招いてくださっています。主のみ翼の陰に隠れ込みましょう。


4.いのちをとこしえに守られるお方(7,8節)

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。(7節)
人生の旅路ではさまざまな災いが起こってきます。自然災害や病気もあれば、人災や犯罪もあるでしょう。しかし主はすべての災いから私たちを守り、いのちを守られるというのです。
「いのち」は、ただ肉体的な生命だけでなく、心も体も、また生活のすべてを含んでいます。私たちにとって何よりも大切なことは、身体や経済生活以上に霊魂が守られることではないでしょうか。どんなに健やかであっても私たちの齢は80から100年にすぎません。イエス様は次のように語っておられます。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)イエス様は、たましいさえもゲヘナ(地獄)で滅ぼすことができるかたを恐れ、魂が永遠の滅びから救われ、守られることを祈り求めなさいと問いかけておられます。
エス様は、私たちが罪のゆえに滅びることなく永遠のいのちを賜物として受けることができるように、十字架にかかり身代わりとなって罪の裁きを受けてくださいました。イエス様の十字架の身代わりの死によって私たちは罪の赦しを受け、裁きと滅びから守られたのです。こうしてイエス様は、罪からの唯一の救い主となられました。イエス様を救い主として信じるとき、罪は完全に赦され、神様の前に「すでに罪赦された者」として安らかに立つことができます。神様から私たちに与えられた最大、最高の助けはイエス様です。
時々、「クリスチャンになると、神さまの祝福や守りがあるから、苦しいことや辛いことは一切なくなるはずだ」とキリスト信仰を一種の御利益宗教のように考えてしまう場合がありますが。しかし、信仰による神さまの本当の祝福は、むしろ試練を通してもたらされます。神様に用いられ、大きな祝福を受けている偉大な人物は、すべて例外なく多くの試練を経て、神さまに用いられるように変えられていきました。試練はそのときは決してありがたいと言えるものではないかもしれませんが、あとで振り返ってみると、その時の体験は、他の何事にも代えがたい貴重な体験となったと言えるようになります。
ある人がこんな言葉を残しています。「自分の望んだ試練はひとつもなかったけれど、感謝しなかった試練はひとつもなかった」と。たとえ状況がどのようであっても打ち勝っていく歩みそのものが、神の守りなのです。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)
「4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:12)
使徒パウロのこれらの言葉は、災いをも災いとしない、むしろそれをも勝利と祝福へと変えてくださるという信仰を表しています。これこそ世に打ち勝った信仰です。私たちの目標は何でしょうか。この世での成功、地位や名誉でしょうか。そうではありません。イエス様が再び来られる時、責められるところのないように全く聖なるものとして御前に立つということです。キリストに似たものとなることです。それは自分の力ではできません。イエス様ご自身がして下さいます。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(1テサロニケ5:23,24)
 
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(8節)
主は旅の行く道も帰る道も、つまり人生の全行程を守ってくださいます。そしてそれは今よりとこしえまでです。イエス様は言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。
つまり、単にこの巡礼の旅ばかりでなく、それを越えた全人生、更に人生を終えた後の永遠の世界にまでも神様の守りは限りなく広がっていくのです。黙示録7章には、天国におけるクリスチャンの姿が描かれています。
「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」(16〜17節)。主の守りは今よりとこしえまでもです。
 
クリスチャンの人生は、天のエルサレムに向かう巡礼の旅です。その旅路には、乗り越えねばならない問題の山も出てきます。しかしその旅路には必ず神の助けがあります。その助けは、神様の徹底した守りです。主に信頼する者を主は徹底的に守られます。主は耐えざる臨在のうちに私たちを、昼夜を問わず、すべての歩みを支え、またすべての災いから、人生の旅路の全行程を守ってくださるお方です。試練、困難、逆境をもすべては益と変えられ、ゴールである天のエルサレムに上らせて下さいます。
この臨在の主に絶えず、どんなときも憩い、信頼し、このお方により頼んで、人生の旅路を、天国目指して歩んでまいりましょう。「主はあなたを守る方」です。


                       (説教者:小平徳行牧師・アラスカ伝道を目前にして)