柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「結婚の祝福と救いの成就」第1コリント7章1-16節

今日のテーマは「結婚の祝福と救いの成就」です。

7章には、結婚のことが語られていますが、結婚を通して救いがどのように成就されるか、と言うことを語ります。結婚をするか、しないかと言うことも、救いを基準に考えるべきだ、と言うことです。


1.救いの妨げとならないように

結婚についてパウロ「わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。8」と自らの経験から出た独身の勧めを語ります。しかし、それを絶対とはしないで、そのすぐ後に「結婚しなさい9」とも語ります。その理由として「自制することができなければ 9」と言います。
ここで注意しなければならないことは、自制できないことが弱いことだとか、悪いことだとは言っていないことです。ですから、信仰者として独身で居ることがベストだと言うことではなく、また、結婚したから信仰者として相応しくないと言っているのでもありません。
大切なのは、どちらであっても、主の救いを全うすることなのです。すべてのことは救いの妨げとならないように、と言うことが主眼であって、独身であっても、結婚していても、同じように弱さもあれば戦いもあることでしょう。
重要なことは、自分にとってどちらを選ぶことが、主を信じ、主に仕える人生を全うできるかと言うことです。それは、その人に与えられた境遇によって異なってくる言うことを、パウロは考えていたと思われます。ですから、独身である自分のような生き方だけが神に仕える道だ、とは思っていないし、それを他人に強要しようとはしていません。
彼が常に心がけていたことは、どうすれば救われるか、どうすれば間違いの無い信仰生活を送れるか、どうすれば救いを全うすることができるかということであったに違いないのです。


2.主の権威によって

次に記されている 「命じるのは、私ではなく主です。10」「これを言うのは主ではなく、私です。12」 という二つの言葉ですが、同じような信仰の勧めを、
主の言葉と自分の言葉の、二つに分けて語っています。これにはいろいろ議論があるようですが、当時の教会の置かれていた状況を示していると思われます。
当時は、主イエスが直接語られた言葉が、いまだ教会の中に生き生きと息づいていました。その一方で、聖書の権威が今のように定まっていない中で、使徒たちの語ることばの権威が問題になったのではないか、と推測されるのです。
ですから、パウロの語ろうとしていることは、ひとつは主が直接語られたことで、もう一つは主の言葉を受けて自分が語ることだ、と区別したのでしょう。しかし、パウロの言葉といっても、聖霊がその語るところを導かれたと信じて聖書の権威を認めた現代の教会にとっては、この二つに分けられたことを、何ら区別する必要は無いのです。
さて、ここで問題としていることは、離婚についてであり、それを禁じる主の立場が明確にされています。続いて、現実的なこととして、不信者の妻、あるいは不信者の夫の場合について語ります。コリント教会は異邦人の町の教会であり、キリスト者は少数派であったと思われますから、現在のわたしたちを取り巻く状況と似ていた、と考えられます。
ですから、信仰が異なるから結婚しない・結婚できない、と言う状況が生まれてきて当然でしょう。これは、わたしたちの周辺でもしばしば話題になることです。
しかし、パウロ「いっしょにいることを承知しているばあい (共にいることを喜んでいる場合:口語訳) は、離婚してはいけません 13」と明言します。それは、そのような結婚が、決して恥ずべきことではなく、そこにも神の御業が働く機会となる、という信仰があります。このような確信を持つのと、ただ無関心でいるのとでは、大きな違いが生じてくることでしょう。


3.妻によって聖められる

信仰者が離婚してはならないと言う根拠は、それは神の合わせられたものであるから、と言うことですが、では信仰のない者、あるいは不信者との結婚の場合はどうかと言えば、そこにも神が合わせられたという原則を貫いて、離婚しないように勧めます。
ここで問題としていることは、結婚の神聖と言うことです。結婚は神聖なものと言われますが、神聖とは神の領域を意味し、人の介入できないことを指しています。離婚を禁じるのは「信者でない夫は(信者の)妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。14」
これは驚くべき言葉であると共に、わたしたち日本の現実にあっては大きな慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。結婚そのものが神によって立てられた制度であり、神がこれを祝福しておられるのであれば、夫婦のどちらかがその事実を知ることによって、その結婚は祝福されるのです。なぜなら、信仰をもった夫または妻が、神が結婚によって何を求めておられるか、どのような祝福を与えておられるのかを良く知っているからです。
このパウロの確信は、次の言葉を引き出しています。すなわち「そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです14」という言葉です。
ここに人間の誕生の祝福が語られます。信仰のない人でも、自分の子どもが生まれると、そこに喜びと同時に、一種の畏れさえ感じるものです。それは人間のあらゆる営みの中で、最も神聖なもの、すなわち人間の立ち入れない神の領域を感じるからです。ですから、<子どもは授かりもの>と言うのです。
子どもの誕生を通して、神が与えてくださったと言うことを知らなければ、結婚の祝福は、真の祝福とはなりません。その時、両親が信仰によって、この祝福を受け取ることができれば幸いですが、夫だけが、妻だけがその祝福を知るだけでも、その子どもは神の祝福に与れるのです。
ですから、信仰のない夫を持つ妻も、信仰のない妻を持つ夫も、確信と誇りを持って、信仰を家庭の礎としなければなりません。


4.束縛されてはいない

どこまでも離婚ということを否定しながらも「もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。15」と語ります。この言葉の背後には、信仰による確信と言うものが感じられます。夫婦が共にいることの幸いを確信し、どのような困難も乗り越えるべきだ、と考えるパウロが、冷淡に見えるほどの発言をします。しかし、これは冷淡と言うことではなく、いわば、神の御心を知らず、それに背く者は、もはやどうしようもない、と言うことだと思われます。
神の御心は、すべての人が救われることではありますが、多くの人の中には、どうしようもない人も居ると言うことを認めているのです。ですから「そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。15」と言うのです。
そして「神は、平和を得させようとしてあなた方を召されたのです。」という言葉は、彼の語る結論が敗北ではなく、勝利であることを宣言しているのです。

神は、キリストの十字架による救いを与えてくださいました。神が平和を望まれると言うことが、どれほどのことかと言うことを十字架は物語っています。では、どのような平和を願っておられるかと言えば、ただ平穏な、波立たない平和ではなく、常に、神だけが神とされ、神の御心が行われることを望まれるのです。それ以外のところに平和はありません。そしてそのような平和を作るために、結婚の制度が設けられ、家庭が造られたのです。ですから家族とか夫婦は、神の平安の表れでなければ、その意味を失い、夫婦としての存在の意味も失われるのです。
最後の言葉は悲観的に聞えるかもしれませんが、決して悲観や敗北ではなく、人が自らの無力さを認め、その救いについて、神に信頼し、神に委ねるべきことが記されているのです。なぜなら、神こそが真の勝利者なのですから。
わたしたちは、いまある恵みを感謝すると共に、魂の救いについて最善を尽くし、結果は神に信頼すべきです。救うのは神ご自身ですから。

家族の救いがまだ実現していなくても、自分の結婚が救いの成就に繋がることを信じて、主に望みを置いて進みましょう。あなたが家族の祝福の礎となることを信じて。


                     (説教者:六甲みどり教会 牧師  岸本 望 師)