この世では多くの苦しみがあります。私たちはなぜ悩み苦しむのでしょうか。聖書を読むなら一つのはっきりとした理由がわかります。それは、人間の罪によって神との関係が破壊され祝福を失ったからです。罪によって神との関係すなわち交わりが絶たれ、心に悩みや苦しみを抱えたままでいるのです。
しかし、聖書を読むなら、私たちは苦しみは試練テストであり、神様は必ず祝福という大きな喜びと希望を与えてくださると言うことも体験できるのです。
1,信仰による試練
アブラハムは元々クリスチャンではありませんでした。月や星を拝む、偶像の世界に生きる人でした。ところがお父さんのテラはカルデヤのウルを出て、途中で死にました。その後アブラハムは、カルデヤに戻らないで、神様の示す地に向かったのです。それが彼の信仰でした。彼の信仰とは、聞いて従う…それが彼の信仰です。
その信仰の故に、神様はアブラハムを祝福されました。持ち物を増やし、周りのものからも害を受けないように神様は守られました。なぜなら、彼自身が祝福の基であったからです。そして、それを定められたのは彼自身ではなく、主なる神様が彼をそのようになされたからです。そして彼は様々な困難を信仰によって克服し、ますます神に祝されたものとなりました。
ところがここで人生最大の試練が神様によって与えられたのです。それは、愛するひとり子イサクを献げよとの事でした。ある意味、イサクは彼のいのちよりも大切な存在でした。イサクが生まれたことは彼にとっての喜びであり、希望であったのです。100歳の時に生まれたことはまさに奇跡でした。そして、そのいのちをも神様が与えてくださっておられることは彼には解っていたのです。
しかし、わかってはいるものの献げよ、殺せと言うことは人間的には不可能な事です。しかも、モリヤの地で全焼のいけにえとして献げよ、と言われたのです。全焼とは全部焼き尽くすと言うことです。そんな恐ろしいことができるのでしょうか。
2,信仰による祝福
しかし、それは可能となります。信じる信仰によってできるのです。事実、アブラハムはイサクを連れてモリヤの山で祭壇を築き、薪を並べてイサクを縛り、置いたのです。イサクは小さな子どもではありません。薪を背負うことのできるくらい力があったのです(6節)。おそらくは100歳のアブラハムより腕力は強かったでしょう。それでも彼は父に従って薪の上に実を横たえたのです。
その時、御使いを通して主なる神様は語られたのです。その言葉は12節に出ています。アブラハムは神を恐れる者であり、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。と言われたのです。ですから、アブラハムは献げたのです。全焼のいけにえとして彼はイサクを献げた。紛れもない信仰の行為を彼は行ったのです。実証したのです。そして、神様は彼を喜ばれました。彼をさらに祝福されて大いなるものとされたのです。
問題は、私たちです。私たちはアブラハムの信仰を受け継いでいるのでしょうか。主なる神を信じ従っているのでしょうか。私たちは旧約聖書にある全焼のいけにえはしません。しかし、私たちは献金において献げることができます。牛や羊を献げることはしませんが、献金を持って主なる神にささげることができます。献金は献身であると言われますが、私たちもアブラハムの信仰を持って献げたいと思います。ベタニヤのマリアもナルドの香油を献げました。貧しいやもめも全部献げました(マルコ12:44)。それをイエス様は大変喜ばれたのです。
私たちも、信仰によって主に応答したい。そして、どれほど神様が豊に祝福して下さる方であるかを立証し、勝利の信仰を持って天国に凱旋する者でありたいと思います。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)