柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「聖めを求める」ヘブル12章14-17

実りの秋を迎えていますが、神様は私たちの心も生活も豊かにして下さいます。それが祝福です。私たちはどのようにすれば祝福に与ることができるでしょうか。


1,ヤコブエサウ

エサウの名前が16節に出て来ますが、信仰の父と呼ばれたアブラハムの孫になります。彼はアブラハムの約束の子イサクから生まれた双子の兄弟の兄であり、家督を相続するものであったのですが、彼は祝福を失ったのです。なぜなら、彼は長子であるという権利を軽んじ、愚かにも豆の煮物と交換して神様からの祝福を失ってしまいました。
この話は私たちと関係のないものではありません。私たちも気をつけなければならないのです。俗悪なものと彼の名前の後についているのですが、エサウの最大の欠点を表しています。彼は神の祝福を求めないで、この世の喜びを求めたのです。狩りに出かけ、お腹を空かせて帰ってきた彼は弟ヤコブが台所で豆を煮ていて、それが食べたいとの欲望を満たすために、長子の権利を売ってしまったのです。それがまた後に、ヤコブとの争いの原因となりました。
もし、彼が空腹にとらわれないで、穏やかにしていたらやがて食事の時となり、腹一杯食べることができ、また一家の長としての権威も祝福をもたらす神の恵みにも預かることができたのです。
私たちはどうでしょうか。まず、祝福を与えて下さる神様第一に生きているでしょうか。愚かにも、それを忘れて、あのエサウのように祝福を失うものとなってはいけないのです。
それとは対照的に、ヤコブは神の祝福に預かる人となりました。確かに彼は、兄をだましまた父をも欺き神の祝福を手に入れました。しかし、神は真実です。彼はまず罪の刈り取りをしなければなりませんでした。母リベカの兄のもとに身を寄せましたが、何年間もただ働きをしなければなりませんでした。また、その娘ラケルとの結婚を望んだのにまず姉と無理矢理結婚させられることになりました。彼もまた、苦しみを受けたのです。
しかし、神様は彼を祝されました。持ち物を多く与え豊かにされたのです。そしてついには、兄エサウとの和解も与えられました。そして、正式にアブラハム、イサクの跡継ぎとなったのです。それが彼に与えられた神の祝福でした。


2,祝福を得るために

私たちが神の祝福を得るために、心がけなければならないことが二つ14節に出ています。

 (1)第一に、平和を求めることです。平和は自動的に与えられません。神に求めなければならない、祈らなければならなものなのです。この平和は単なる外面的なもの、争いがないというだけのものではありません。むしろ、本質的・内面的な心の平安、平安に心がまったく支配されているという状態です。その平安はどこから来るでしょうか。神から来るのです。イエス・キリストがわたしの平安をあなた方に与えると弟子たちに約束されたあの平安です。弟子たちは、聖霊によって平安が与えられました。揺るぎない平安です。たとえ鞭で打ちたたかれても、牢屋に入れられ、はずかしめを受けても、自分がそれに足るものとされてにこにこしている、さらに救い主キリストを大胆に宣べ伝える平安が彼らにあったのです。私たちも、その平安を受けるべきです。祈り求めて、自分のものとさせていただくのです。
 (2)第二に、聖めを求めることです。それは、他の人のことではなく、自分自身の心が聖められることです。救われたら、自動的に聖くなることができるでしょうか。そのようにはなりません。むしろ、救われたら自分が聖くないことがわかるようになります。それは、救われたと言う一つの表れです。自分が聖くないことがわかるのは、救われたことの一つの表れと認めるべきです。そして私たちは、聖くあるなければならないのです。聖くなければ、神を見ることができません。イエス様が共におられるという平安、心の喜びを得ることができないのです。
 (3)そのためにも、私たちは自分の心を点検していただく必要があります。15節には苦い根という言葉が出て来ます。それは、心の中にある、ねたんだり憎んだり、信じなかったり一致しない、罪の根です。その根が芽を出して、あなたの心を悩ますのです。心を苦しみに陥らせるのです。ですから、その根を取り除かれなければならないのです。それが、できるのは私たちではなく、神様ご自身です。私たちは聖めていただかなければなりなせん。それは、自分だけではなく人をも汚す、傷つけるけるものとなるのです。


 私たちの心魂を聖めるために、イエス様は十字架で血を流され、私たちの心は十字架の血潮によって聖められるのです。私たちが、その罪を言い表し、告白し求めるなら聖められるのです(?ヨハネ1:9)。苦い根が取り除かれ、聖められキリストの平和によって心を満たしていただきましょう。


             (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)