柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「迫害者パウロ」 使徒7章54節-8章3節

今日は、イエス様を迫害していたサウロ(後のパウロ)がイエス様にお出会いし、逆にイエス様はすばらしいと多くの人に話をする人に変えられたことを学びます。
このことを通して何がわかるかというと、まず第一に、私たちは、聖書が言うように罪人であり、正しくないことがわかります。そして第二に、そのような私たちをも神様は変えてくださることができることがわかります。人を死に至らしめていたサウロが、人を生かす人励まし力を与える人に変わったのです。神様は私たちをも他の人を生かせる人にして下さいます。


1,ステパノと出会うサウロ

ユダヤの国ではイエス様を救い主として信じる人が多くなりました。中には貧しい人たちもたくさんいました。彼らは持ち物をともに使い、食べ物も分け合って生活していました。しかし人数が多くなり配給の食べ物も十分に行き渡らないことが出てきたのです。そこで使徒たちは、その問題を解決するために7人のお世話係を選ぶことにしました。彼らに弱い人たちのためにお世話をさせたのです。その中にステパノと言う人がいました。彼は評判の良い、他の人から尊敬され愛されていた人でした。しかし、ある日彼は捕らえられ、ユダヤの議会に引っ張り出されました。そこで大胆にイエス様こそ神の子救い主と証ししたのです。
そしてそこにはサウロもいました。イエス様が救い主と聞いて、人々は耳を覆い、大声で叫び声を上げてステパノに石を投げつけ、殺してしまったのです。正当な裁判も何もなく、ステパノは殺されてしまいました。それは公に正しいことではありません。間違ったことです。リンチです。今の言葉で言うなら「いじめ」に当たるかもしれません。今の時代、いじめに遭って死んだ子どももいます。キモいとかウザい死ねと言われて死んだのです。まさにそれはあの当時の石打ちの刑に等しいものではないでしょうか。石の代わりに言葉をもって攻撃し、汚い言葉やののしることによって人の心を傷つけるのです。サウロは何と、そのことに賛成していたのです。それだけではありません。教会を荒らし、家々に押し入って人を引きずり出し、牢屋に入れたのです。彼は脅しと殺意に燃えた恐ろしい人だったのです。


2,ステパノの死

人間にとって死ほど怖いものはないと思います。現代の子どもでもお化け屋敷行くと怖れを感じるのですが、人間だれしも、自分が死んだらどうなるのかどこへ行くのか不安で恐ろしい気持ちになります。
ステパノはどうだったでしょうか。彼に死の恐れはあったでしょうか。聖書を見る限り、彼は死を恐れていたようにはおもわれません。彼は死も恐れませんでしたし、人も恐れませんでした。私たちにも彼のような勇気が欲しいと思います。なぜ彼は人も死も恐れなかったのでしょうか。2つのものがあったと思います。

(1)聖霊に満たされていた。
55節に「聖霊に満たされていたステパノ」とあります。彼は聖霊に、魂は満たされていました。聖霊とは神の霊であり、キリストの霊、神ご自身です。私たちは「聖霊の宮」です。私たちの心に聖霊が、イエス様が住んで下さるのです。そしてイエス様が心の王座におられると私たちの心を守り、治めて下さるのです。あなたの心はどうでしょうか、聖霊に満たされているでしょうか。キリストが心の王座に就いて下さり、全てを治めて下さっているでしょうか。心に平安があるでしょうか。ストレスや悲しみや口や不平不満で、満ちていないでしょうか。 イエス・キリストが心にはいって下さり、そうした悪い思いを追い出して下さり、十字架の血潮で心を浄め、聖霊で満たして下さることを願います。ステパノにはその経験がありました。その信仰があったのです。それで彼は、心に揺るぎないものがあり、平安で喜びと感謝に溢れて、人に仕え奉仕をなし、イエス・キリストを大胆に証ししたのです。聖霊は私たちが奉仕をすることや証しすることを助けて下さいます。
聖霊が働かれるとき、見えざるものが見えてきます。それは神の栄光です。彼は神の栄光、天の栄光が見えました。父なる神の右に立ち、自分を励まして下さるイエス様の姿が見えたのです。これほどありがたいものはないと思います。自分を愛し、十字架に身代わりになって赦して下さったイエス様の姿が見えるのは最高の喜びです。

(2)神様に全てをおまかせした。

59節を見ますと、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈るステパノの姿があります。なんと石で打ち殺される中に、石つぶてを受け、額から血を流しながらも、全てを主に委ねるステパノの姿があります。私たちも彼のように苦しみに遭いながらも、なおも主を信じ、すべてをお任せするものでありたいと思います。キリストにお任せするとき、迫害する人を愛する心が生まれます。自分を迫害する人を赦すことができるようになります。その証拠に「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」とステパノは祈りました。それが彼の本性だったのです。人間死ぬとき、偽りながら、演じながら死ぬことはできないと思います。本当の姿がそこに現されます。ステパノは人を赦す、それが彼の姿でした。その力は十字架にあるのです。十字架によって人を赦し、愛することができるようになるのです。
なぜならサウロは変わりました。イエス・キリストにお会いし、このキリストを信じることによって彼は、迫害者から愛の人に変えられたのです。
私たちも同じようにイエス・キリストを信じるとき、人生が変わります。むなしい人生から、キリストに愛され生かされ心満たされる人生に変えられるのです。


                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)