柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛の福音」 第2コリント5章14-15節

8月15日は終戦記念日です。310万人の方々が犠牲になられました。戦後64年が経ちましたけれども、その傷は完全には癒されたとは言えません。今なお苦しみの中にある方も大勢おられます。しかし、その苦しみや悲しみを乗り越えられるものがあります。神様は私たちによい知らせ(福音)を語っておられます。それを聖書の中から見いだすことができます。


1,聖書に生きる原動力を見いだせる

パウロは14節で「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と言いました。熱烈にキリストをのべ伝えたパウロの原動力は「キリストの愛」です。彼は11章23節以降を見ると大変な苦難に遭っています。ムチで打たれたり石を投げつけられたり、死に直面することもしばしはあったのです。それでも彼はへこたれませんでした。もういやだと言って投げ出さなかったのです。なぜ、そのような目にあっても伝道を止めなかったのでしょうか、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」からなのです。
彼の伝道の原動力、いや生きることの力は「キリストの愛」にあったのです。キリストの愛とは何でしょうか。それは罪人のために命を捨てることです。正しい人のために命を捨てることではありません。自分を迫害し呪い敵対する人の為に命を捨てることです。だれがそれをしたのか。それはイエス・キリストです。
キリストは自分を迫害する者の為に死なれました。キリストには自分を正しいと主張する権利も、敵を滅ぼす力もありました。しかし、権利も力も使われなかったのです。一切を放棄されました。なぜならキリストは罪人を裁くためではなく、罪人を救うために来られたからです。
「全ての人は罪を犯したために神の栄光を受けられなくなっている」と聖書は言っています(ローマ3:23)。私たちは神に背き、信じないで自分勝手なことをしていました。自分の気に入らないことに腹を立て、憎しみと怒り、悲しみの絶望の中にいたものです。いったいそんな自分をだれが救ってくれるのでしょうか。それは、十字架に命を捨てて下さったイエス・キリストだけです。
パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受けいれるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(?テモテ1:15)とはっきり告白しているのです。そして、彼は魂の罪からも永遠の滅びからも救われたのです。晴れて自由の身となり、そして生き方も喜びに変わったのです。
聖書のなかで「取り囲んでいる」の言葉は口語訳では「強く迫っている」新共同訳は「駆り立てている」とあります。キリストの愛はまさに私たちを取り囲み、強く迫り、駆り立てるのです。私たちは自分の力でがんばらなくてもいいのです。キリストの愛が私を取り囲み、迫り、駆り立ててくださる。良い方向に向かわせてくださるのです。すべてを全能の神に委ねて、パウロのように信じて生きることです。


2,聖書の中に生きる目的を見いだせる

パウロは初めからクリスチャンではありませんでした。むしろ彼はキリスト教の迫害者だったのです。彼は自分のやっていることが正しいと信じ、イエス・キリストを信じているものは間違っていると思い、老人も子どもも男も女も片っ端からムチで打ちたたき、縛り上げ、牢に投げ込んだのです。彼によって死に至らしめられた者も多くいたのです。
しかしその中で、彼の心は喜びに満たされていたでしょうか。そうではありません。使徒9:1を見るならば、脅迫と殺意に燃えていたとあります。それはまさに殺人者の姿です。そして彼は「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:19、24)と告白しているのです。
その彼もダマスコへの迫害の途上、復活のキリストにお会いし、人生が全く変えられたのです。彼がすばらしいと信じていた律法の束縛から解放され、自由の身、彼の心と魂はその束縛から解放されたのです。新しい生き方に変わったのです。私たちも変わります。キリストにあるなら、キリストを信じるなら私たちの心は新しくなるのです。

ジェイコブ・デシーザーという方がおられました。彼は、第二次世界大戦が始まった頃、真珠湾攻撃のニュースを聞き、志願兵として入隊しました。そして日本本土を空襲したのです。名古屋を爆撃し、中国本土に着いたとき打ち落とされ不時着しました。そして捕らえられ、捕虜収容所で過酷な生活をしたのです。そして、ますます日本人に憎しみを持つようになりました。しかし、一冊の聖書を読んだとき、キリストの十字架の愛によって憎しみが取りのぞかれたのです。憎しみの連鎖はキリストの愛によって断ち切られ、彼はクリスチャンとなり、神の愛に生きる人となりました。やがて彼は日本に宣教師としてきました。彼は自分の罪をわび、また収容所で受けた虐待や過酷な生活のことも赦し、キリストの愛を伝える人になったのです。

パウロは私たちに言っています。私たちが生きるのはもはや自分の為に出はなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
私たちのために十字架で命を捨てて下さったイエス・キリストが喜んで下さる、そのような生き方を私たちもさせて頂きたいと思います。


                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)