柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の相続人」ガラテヤ4章1-7節

過日、新天皇即位のパレードがありました。その後、大嘗祭が行われましたが、改めて私たちは日本の文化の中に生きている事を思わされます。文化や生活習慣も大切なものがありますが、それに縛られないで、神様は私たちが自由に活き活きと生きる生き方を示してくださいます。

1,束縛するものからの解放
 ガラテヤ書の書かれた一つの理由は、律法からの解放でした。新たにクリスチャンとなった人に、旧約の律法を守らなければいけないという人たちが来たのです。しかし、パウロは、私たちはイエス・キリストを信じ、恵みによって救われたことをガラテヤの人たちに語りました。
 今日、私たちは律法に縛られる必要はありません。キリストの十字架によって、神様の恵みによって救われたことをいつも確信しておく必要があります。
 ある人は、クリスチャンだったらこうしなければならないという思いがあると思います。確かに社会生活においてはルールがありお互いに守らなければなりませんが、それ以上に大切なのは神様の存在であると思います。私たちは、神様によって救われた。新しい命が与えられた。神様と神様が与えられた律法はどちらが大切なのか。もちろん神様です。律法が神様の上に来ることはありません。なぜ律法があるのか、それは、私たちが霊的に幼い子どもだからです。子どもには大人のような分別がありません。子どもは親や大人の世話を受けて成長するものです。ですから2節にあるように「後見人、管理者の下」にあることは必要です。
 ですから、成人していない幼稚な子どもの時は、あれをしなさい、これはしてはだめと教えられることがあります。しかし、子どもにとってはすごく不自由です。ですから、私たちはこの世においては不自由なときがあるです。信仰の世界においても、不自由さがあるのです。律法に縛られることです。そして、心までもが、縛られる不自由さが出て来るのです。クリスチャンだから、こうあらねばならない。こうしなければならない。まさに、パウロユダヤ人の律法に縛られていたのです。パリサイ人・律法学者それが、彼の見えない鎖であり、不自由そのものであったのです。

2,律法からの解放―神の相続人
 ところが、彼は自由な人になる機会が与えられました。イエス・キリストとの出会いです。キリストに会ったことによって彼は、律法の束縛―呪いから解放されたのです。自由に生きる人となりました。かといって、自分勝手な人間、横暴な人間になったのではありません。むしろ、謙遜であり、へりくだり、神を畏れ、人を愛する者に変えられたのです。そして彼は忍耐と愛を持って人に接する者となったのです。それが、このガラテヤ書を書く理由となりました。
 なぜなら、パウロはキリストの贖いによって、律法主義者から神の子すなわち神の相続人と変えられたのです。贖いとはなにか、命をもって命をあがなう。死刑囚を赦すために自分が死刑囚になることです。キリストは身代わりになられました。なぜなら私たちは、律法の元にあって、律法を全うできなかったからです。律法破りでした。聖書で言うところの罪人であったのです。しかしキリストは私たちの身代わりとなって、十字架に磔となり、命の代価を払ってくださったのです。私たちは十字架によって罪が赦されました。それが贖いという言葉の意味です。
 ですから、私たちは十字架の代価で、神の子としての身分が与えられました。神の相続人です。何を受け継ぐのか。天国を受け継ぐ事ができるのです。相続人は相続できるのです。そして、その証拠として御子の御霊すなわち御聖霊を私たちに遣わしてくださったのです。私たちはその御聖霊によって、神を父と呼ぶことができるのです。アラム語ではアバ―お父ちゃんです。それほど親しく呼ぶことができるのです。
 私たちはもはや、律法中心で生きるのではなく、キリストによってキリストが中心となって生きる者、神の相続人として天の御国を心に描いて生きる者とさせていただきましょう。

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)