柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「異邦人の救い」 ローマ9章19-28節

私たちはかつて真の神を知らない、また恵みを受けることのない異邦人でした。しかし、そのような私たちも神の愛によって救われ、豊かな恵みにあずかることができるのです。


1,私たちは神によって造られた器である

19節に「だれが神のご計画に逆らうことができましょう」とあります。それは、自分はだめだという劣等感の表れです。ある人は「劣等感とは恥じなくてもいいものを恥ずかしく思う、ゆがんだ心だ」と言いました。確かに私たちは恥じる必要のない小さなことにこだわって悩むものです。
エジプトの地からイスラエルの民を導いたモーセにも悩みがありました。彼は神様に「口が重いから、人々に話せません」と言ったのです。おそらく口べた以上に吃音だったと思われます。そのときに、全能の神様は彼に、「口の重い人を造ったのはいったい誰か」と言われたのです。そのときに彼の悩みは解消されました。彼は自分で、話したり民を指導しなくてもいいんだ。造って下さった神様が全ての責任を持ってくださるのだと安心したのです。
ですから、私たちも「自分がひとりでやっている。何もかも自分が責任を持たなくてはならない」と思うと心が苦しくなります。しかし、そうではなくて、「全能の神様がわたしをも造られた。全ては神様が責任を取ってくださる」、と信じると気が楽になります。私たちは偶然生まれて偶然で生きているのではなく、神が私たちを造り、神が私たちを守り養ってくださるのです。


2,私たちは怒りの器である
22節に「怒りの器」とあります。私たちはこの世においては、怒りの器です。私たちの中に不平や不満、そして不信仰な思いがあることを否定できません。しかも、そうした思いは私たちに平安や喜びを与えるものではありません。むしろ、それらが大きくなると破壊的なものになります。人に文句を言ったり不平を口にして人を傷つけることがあります。それとは逆に、自分に対して否定的になると、自分自身の心を傷つけ、劣等感に悩まされることになります。
昔、無神論者のインガソルと言う人が、神を呪い、侮辱するような言葉をある講演の中で言いました。そして彼はもし神がいるなら、わたしのこれらの言葉を聞いて15分以内に殺すだろう。と言いながら15分が経ちました。そのとき彼は、いくら神を冒涜する言葉を言っても死なない。だから神などはいないのだと聴衆に向かって話しました。すると、ひとりの老人が立ち上がり、「それは違う、神はそのあわれみを持ってあなたを忍耐深く待っていてくださるのだ」と言いました。静まりかえっていた聴衆は彼に惜しみない拍手をしたのです。
私たちは確かに、神を疑い否定し、神から離れた罪人でした。それこそ、滅ぼされて当然のようなものです。全てを造られた神を喜ばすようなことをしていなませんでした。まさに、自分勝手であり、むなしい人生の道を歩んでいたものではないでしょうか。聖書では、それを「罪」と呼んでいます。神を神とあがめない、神を畏れない生活をしているのです。物質的には豊かですが、心は乏しくなっているのです。私たちには愛の豊かさが必要です。それはただ自分を愛する愛というより、人を愛することができるという愛です。その愛を豊かに与えて下さるのは真の神様だけです。ですから、自分は愛されたい、そして愛に満たされたいと願うなら、神を信じる必要があるのです。


3,私たちはあわれみの器に変えられる

23節には「あわれみの器」という言葉があります。それは、神のあわれみを受ける器、神のあわれみに満たされる器という意味です。かつては怒りの器であり神の怒りを身に受け、滅ぼされても当然のものがあわれみの器に変えられるのです。
だれが私たちを変えるのでしょうか。それは私たちを造られた神様が私たちを変えて下さるのです。私たちは、自分で自分を変えることはできません。しかし、神にはできるのです。それは21節にあります。陶器師は自分で、自分の意のままに器を作ります。土のかたまりに、意見を聞いてから、土のかたまりの言うとおりに造るのではないのです。陶器師の意志によって、土のかたまりから陶器が形作られるのです。私たちはまさに土のかたまりです。神の御手によって形作られるのです。
そして、24節を見ますならば、私たちをあわれみの器として神様は召しておられると言っています。それはユダヤ人のみならず、異邦人も同じであると言われているのです。私たちは神から離れた異邦人でした。恵みにあずからないものでした。しかし、神の寛容と忍耐を持って、怒りの器から恵みの器へと変えていただくことができるのです。
神の寛容と忍耐とは何でしょうか。それは十字架です。十字架を通して、神は私たちを受けいれて下さり、私たちの犯した全ての過ちを赦して下さるのです。十字架を通して私たちは新しく造られるのです。
瞬きの詩人水野源三さんは、小学四年のとき赤痢で高熱を発症し、脳性麻痺で身体を動かすことも話すこともできなくなりました。四畳半の部屋で寝たきりの青春時代を悩み抜いていた頃、造り主なる神を知り、十字架のキリストの愛によって全く新しく造りかえられました。心の中から、くめども尽きず神をたたえる賛美の歌がわき上がったのでした。
四畳半から一歩も出られませんでしたけど、神の栄光を現す器と変えられたのです。
あなたも変えられます。全てをキリストにお委ねしましょう。

                              (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)