柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰をたとえれば」 ヘブル人への手紙11章6節

                           (第三礼拝説教要旨)


「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰も、みな救われん」(新聖歌182番)
と歌いますが、「この科学万能の時代に、目に見えないものをただ信じるわけにはいかない」と抵抗を感じられる方も多いのではないでしょうか。それに「信じるというのは簡単なようだけど、いざとなると実際にはどういうことかつかみにくい」という方もおられるでしょう。
 『信仰がなくては』とありますが、信仰とはどういうものなのでしょうか。


Ⅰ.目のようなもの

 聖書にこう言われています。『地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ』(イザヤ書45章22節)。私にイエス・キリストを紹介してくれた友人がこう言いました。「川原崎君。君が目をつぶって太陽を見ないでいても、太陽が存在しているように、君が信じても信じなくても唯おひとりの神はいらっしゃるのだ。君が目を開けて見るなら、はるかかなたに太陽の光が君の人生に差し込んで明るい人生が歩けるように、信仰の目を開けて、世の光であるイエス・キリストを見てごらん。光があなたの心に差し込んで、罪の暗闇を追い払い、明るい人生を歩めるのだ」。
 罪のない神の御子イエス様は、全ての人の神のさばきを一身に受けてくださって、十字架の上で死んでくださいました。今まで愛の神に背を向けていたことをお詫びして、この十字架のイエス・キリストを見上げる人は、全て神の救いの中に招かれるのです。


Ⅱ.足のようなもの

 飛行機に乗るに際して、その切符を手に握っていても、飛行機に関する知識があっても、実際に乗り込まない限り、目的地には行けません。大切なことは、安心して、一歩足を出して乗り込むことです。
 実際、飛行機の場合は絶対に安全であるとの保証はありませんが、イエス・キリストの救いの中に入り込むなら、百パ−セント大丈夫です。あなたのため、わたしのため、十字架の死から復活されて、今も生きておられるお方だからです。そのイエス・キリストが、このように招いておられます。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マタイによる福音書11章28節)。飛行機に搭乗するのに、体重の軽重の差はありません。同じように、イエス・キリストの救いの中に入り込むのに、罪の軽重は関係ないのです。
 頭の中で思い込むのが信仰ではありません。神に背を向けていた状態から回れ右して、イエス・キリストのところに来る、これが信仰なのです。今、あなたの一歩をキリストに向かって踏み出してください。


Ⅲ.口のようなもの

 イエス様は、ご自身をいのちのパンになぞらえて、こう言われました。『わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう』(ヨハネによる福音書6章51節)。ここでイエス様は、食べるという表現をもって、内側に受け入れる信仰の行為を示されました。
 食べるというのは簡単なことで、誰にでもできます。しかし料理をする人にとっては、材料をそろえ、栄養価を考え、工夫をこらしながら、愛情を込めて作ります。しかし、どんなに美味しそうな、栄養満点のご馳走でも、食べることには何の足しにもなりません。
 神は、私たちが永遠に生きることができるために全てを用意して下さっているのです。私たちのなすべきことは簡単です。信じて、受け入れるだけなのです。「救い主は待っておられる、お迎えしなさい。心を定め今すぐ、主にこたえなさい。今まで主は待たれた、今も主はあなたが、心の戸を開くのを、待っておられる」(新聖歌188番)。


               (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)