柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「真実であれ」マルコによる福音書11章12-19節

 本日取り上げた箇所は、受難の道を歩まれる主イエスが、エルサレム入城の翌日の、厳しいとも思える「実のないいちじくへの呪い」、荒々しい「宮きよめ」の出来事です。ここには、失望と怒りをあらわにされている主イエスのお姿があります。

Ⅰ.真実を見抜かれるキリスト
 いちじくを呪って枯らしてしまわれたことは(12〜14節)、主イエスの身勝手な感情的なことではなかったかと思えたりします。いつになく不自然です。いちじくの木は、ぶどうの木やオリ−ブの木と並んで、聖書に頻繁に登場します。手入れを怠ると実を結びません。ただ、『いちじくの季節ではなかった』とありますが、実が熟する時には葉も茂るので(6〜7月)、この時期には見られない光景でした(3〜4月)。これには象徴的な意味合いがあります。いちじくの木は、神の手によって培われ、育ち繁栄する神の民に譬えられており、過越祭という神への熱心な礼拝がなされているという外面的・表面的な繁栄は見られるが、それとは裏腹に、そこに潜む偽善、ついには神の御独り子を十字架につけてしまうという神への反逆の姿を見抜いておられたのです。
 続く宮きよめは、柔和な王としてエルサレム入城されたこととは正反対のお姿です。それは、神殿内の庭の一番外側にあった「異邦人の庭」での出来事です。そこでは、献げ物をする場合のユダヤ貨幣への両替や、祭司による検査済みの傷のない鳩の供え物を売る場所となっていました。その際の暴利が、『強盗の巣ににしてしまった』と怒られたのです。しかも、『・・・すべての国民の祈りの家・・・』であったにもかかわらず、異邦人たちが礼拝できない状態だったのです(16節)。礼拝と祈りが妨げられてしまっていることを許されなかったのです。神が臨在される礼拝の場が、人間の身勝手な事のために神を利用するという偽善は、根深いものだったのです(ヨハネ2章13〜16節)。
 以上の出来事の中に、偽善をあばき、真実を見抜かれる権威に満ちた主イエス・キリストの姿に出会います。私たちの信仰が覚醒されるのは、人間の側の興奮した状態によるのではなくて、真実を見抜かれるキリストによるのです。

Ⅱ.キリストへの真実の信仰
 以上の二つの出来事には、共通点があります。葉が茂っている、当然実があると人々に思わせます。神殿礼拝が盛んで、神に対する熱心、その実があると思わせます。しかし、真実な実、真実な礼拝が見られません。主イエスを十字架の死に追いやる不真実さでしかなかったのです。真実を見抜かれるキリストは、私たちに「キリストへの真実の信仰」を求めておられます。
 神の宮である教会が、キリストと交わり、神を礼拝する、祈りの家となっているでしょうか。このことを忘れた時、私たちは結局自分の考え・感情を満足させるために神を引き合いに出して利用しているだけになってしまいます。礼拝の一つ一つのプログラムが、神への信仰による賛美・祈祷・信仰告白・感謝・献金となっているでしゅょうか。説教が、主からのものとして新鮮に受け止める信仰をいただいているでしょうか。教会の信仰復興は、こうした観点からなされていくのです。
 また、キリストの十字架の贖いによって、『聖霊の宮』とされたお互いは(Ⅰコリント6章19〜20節)、私たちの全てを主イエスが主権をもって支配しておられるのですから、普段の生活において真実な歩みを求められるのです。
 真実を見抜かれる主イエスは、私たちの教会と人生に間違ったことなどなさるお方ではありません。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)