柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神は人を用いられる」  使徒行伝6章1-7節

 ペンテコステ以降、主の弟子によって伝道の働きは大胆に進められ、人々はキリストが弟子たちと共におられることを認めないわけにはいきませんでした。しかしそれであればあるほど迫害も熾烈を極めました。このような事態の中にあって、救われる者が加えられ、主の弟子たちの数は増えていきました(1節)。         
 そうした時に、教会内のトラブルが生じました。それに対する解決の道が備えられ、その結果どう展開したかが証言されています。ここに、トラブルの解決は、解決の事柄の中にあるのではなく、召された人物の本質にあることを教えられます。「神は教会に人を立てられた」(カルバン)と言われるように、「神は人を求められる」のです。

Ⅰ.みことばに仕えるために
 とかく私たちは、教会にトラブルがあるなど言語道断だと思いやすいものです。少なくとも、あってほしくないと願います。しかし、恵まれた初代教会にも、事実として存在しました。そうした時に、サタンが熾烈なまでに働いてきます。大切なことは、教会はその試みから得がたいものを発見し、より強固にされていくことです。
 ここに生じた問題は、使徒たちの間における意志の疎通が欠如していたことによります。わすがな人数の時には以心伝心で通じ合っていたことが、しだいに人が増えてくるとそうはいかなくなります。人数の増加だけでなく、構成メンバ−の多様さや生活様式の多面性などが原因で、意志の欠如からくる『苦情』の声が起こりえます。さらに複雑にしているのは、同じユダヤ人でも言葉の違い、生活環境の違いからくる、言わばコミュニケ−ションの問題が生じました。そうしているうちに、愛の配慮の中でなされていた配給のことで『苦情』が表面化したのでした。しかし、問題の本質は、教会の存亡にかかわる重大なものでした。もし、使徒たちが性急に苦情問題だけを解決しようとして、そのことに忙殺されていたらどうなっていたことでしょう。教会の第一の務めである『神の言をさしおく』こととなる危険性があったのです(2節)。神のみことばへの奉仕が後回しにされている限り、教会はサタンにとって何ら驚異的な存在とはなりません。だからそうかと言って、困窮している未亡人のことをなおざりにすることは愛の欠如です。こうして、サタンは教会に対して根底から揺さぶりをかけてきたのです。
 私たちは主の弟子としての識別力が必要です。聖霊の導きについて敏感であるだけでなく、サタンの働きについても敏感でなければなりません。幸い使徒たちは、サタンの計略を見破り、適切な解決策を講じました(2〜3節)。そうして、全員の賛成する中、教会に仕える主の僕が選ばれたのでした。それは、聖霊の導きに従順な器であり、教会の徳と信仰を高める知性と人格をいただいている器であり、良い証しを立てている器でした。そして、使徒たちが神からの恵みと祝福を願う按手をもって任命しました(6節)。
 食卓に仕える奉仕であれ、みことばに仕える奉仕であれ、両方共に聖霊に満たされた信仰の器であることが求められます。ただ、異なった奉仕に精力を奪われて、みことばに仕える本来の奉仕がなおざりにされることを警戒しているのです。もし、みことばに仕える奉仕が後回しにされると、教会としてのいのちが衰微していき、それこそサタンの思うつぼとなります。

Ⅱ.みことばの宣証のために
 『こうして』、聖霊による解決へと導かれた結果、教会のわざは進展していきました(7節)。信徒が信徒らしい役割をもって主に仕えていく、牧師が専念すべき奉仕に打ち込むという、教会の本来の在り方が確立されていくならば、おのずと前進していくのです。
 『神のことば』が広まっていきます。周囲の反対の激しい、そして使徒たちの失敗を何もかも知られている『エルサレム』、すなわち一番伝道しにくいところでです。そして、反キリスト勢力の旗頭とも言うべき『祭司たちが』回心したとは、福音がもたらした感化がいかに強力であったかと思わせられます。
 今なお、弱く、愚かで、小さな私どもですが、主イエスはご自身の福音を委ねられるのです。キリスト教会の今日の課題は、経済問題ではありません。人材問題です。聖霊によって造り変えられた主に仕える人を、神は求めておられるのです。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)