柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「完成をめざして」ピリピ1章4-11節

使徒パウロはローマの牢獄の中でこの手紙を書いたであろうと言われています。そして、彼はそのローマで殉教しました。彼のうちにあった思いは何であったでしょうか。


1,感謝の祈り

彼は獄中にあって祈っていました。4節を見るならば、ピリピの人たちのためにとりなしの祈りをしていたのです。しかも、彼の祈りは喜びでした。
私たちは「祈り」というとお願いの祈りがほとんどではないかと思います。しかし、パウロの祈りは、人々に対するとりなしの祈りであり、もう一つは感謝の祈りでした。ローマの牢獄にあって彼は、海外最初の伝道の地ピリピでの働きを思い出したことでしょう。紫布の商人ルデヤが救われ、悪霊につかれた女を解放し、看守の一家が洗礼を受けるその事を思い出し、救いの御業を覚えて神に感謝を献げていたのです。
賛美歌に「しずけき祈りのときは楽し」とありますが、まさにそのようなときをパウロは牢獄で過ごすことができたのです。いわんや私たちも、あわただしいこの世を逃れて「しずけき祈りのとき」を主と共に持たせていただきたいものです。


2,キリストの日を待つ

キリスト・イエスの日とは、キリストの再臨を意味しています。使徒の働き1章で、オリーブ山からキリストは弟子たちの見ている前で天に昇られ、その時に再び来られることを約束されました。そして、再臨のときは近づいているのです。それはクリスチャンにとって希望のときですが、救われていない者にとっては裁きの日です。私たちすべてのものが救われる必要があります。
その日に至るまで、神様は私たちのうちに働かれ、御自身の御業を成し遂げられます。6節に「良い働き」とありますがいったいこれは何を指しているのでしょうか。
おそらくは三つのことが考えられると思います。まず、その一つは救いです。私たちのためにキリストは十字架に掛かり私たちのすべての罪を赦して下さいました。それは今もなお、継続されてキリストの日に至るまで続けられるのです。
そして、第二のことは聖潔のわざです。それは、私たちがキリストの日に「純真で非難されるところがなく」(10節)とありますように、キリストにお会いするとき責められるところがないように私たちは心のうちがきよめられて、平安と喜び感謝に満ちあふれてキリストを待ち望む者でありたいと思います。キリストは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。
さらに第三のことは、主に仕える奉仕のわざです。ピリピの教会は救われただけでなく使徒パウロを経済的にも支え、5節にあるように福音の奉仕のわざにあずかってきたのです。私たちもまた、同じように仕えることができるのです。


3,キリストによって満たされる

しかし、それらの働きは私たちの賜物や努力によってできるものではありません。「イエス・キリストによって与えられる」とあります。イエス様はヨハネ15章で実を結ぶことを弟子たちに語られました。特に、ヨハネ15:4では「わたしにとどまっていなさい」と言われます。信仰の秘訣は、何かをするのではなくキリストにとどまる、キリストにしっかりとつながることです。そうするならば、私たちは内に豊かに実を結ぶことができるのです。パウロはピリピの人たちにキリストの愛をもって福音を証ししました(8節)。その結果、彼らは救われキリストに仕えるものとなったのです。そして、パウロは彼らの内にキリストの愛がさらに豊かになるようにと願っています。キリストの愛はどのようにして増し加わるのでしょうか。二つのことがあります。真の知識すなわち真の神を聖書を通してますます知ることです。そして、識別力とは神の御心が何であるかを悟ること、神の喜ばれることを知ることです。
それは、御言葉と私たちの心に働かれる聖霊によって知ることができます。私たちの価値観はこの世のものから神の栄光を求める思いへと基準が変わるのです。そして、私たちは喜んで神様の喜ばれることをしたいと願い、それを実行していくことが可能となるのです。それをなされるのは、私たちのうちに住んで下さる内住のキリスト、すなわち、もう一人の助け主御聖霊がそれをなして下さるのです。
私たちはキリストの日に至るまで、すべてを明け渡し、キリストが完成させて下さるのを見るものとさせていただきたいと思います。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)