『古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』(17節)。
ここで言う「古いもの」とは何なのでしょうか、何が「過ぎ去った」のでしょうか、「新しくなった」とは何なのでしょうか。時が流れたら、新しくなるのでしょうか。未だに古いものを引きずり、古いものに絡まれているのでしょうか。古いものと新しいものとの狭間で、中途半端な状態でいるのでしょうか。
どうしたら、一人ひとりが『新しく』なれるのでしょうか。
Ⅰ.造ったから作り変える
人生のやり直し、人生の根本的な再出発は、人間わざでは「不可能」の一語に尽きます。
主なる神が、エレミヤに陶器師の譬えをもって教えられたように(18章参照)、神と愛の交わり、語り合い、神のみこころに生きることを喜びとしていたのが、本来の人間の姿でした。ところが、神のみことばに背いて、神から離れ、自らをまた神以外のものを神としたところから、神との関係が壊れました。そんな人間に対して、「わたしが造ったのであるから、わたしが造り変えることができる」と神は宣言しておられるのです。
エレミヤの時代の人々も、「それは不可能だ」と強情な心になっていますが(18章12節)、生ける神を除外して人生の新しい出発を考えることは、愚かなことです。
Ⅱ.新しく造り変える
神を除外してとは、キリスト抜きの生活であり、それが『罪過』とか『罪』と言われるのです(19、21節)。その罪に影響され、罪に拘束されている『古いもの』、即ちそのような在り方・生き方をしていた罪が赦されて、神との和解に入れられるのが、『新しくなった』ということです。
罪とは私たちの内にある邪悪な思い、間違った欲望、生活悪習慣だけではありません。神との関係を破壊している思い・生き方です(18〜19節)。そうした神を神としていないことの結果、他者との関係も壊され、自分自身も壊された思い・生き方となるのです。
さて、新しく造り変えられるとは、具体的にどういうことでしょうか。まず、全く罪がなかった者として『神の義』という新しい立場を与えられることです(21節)。また、キリストご自身を人間的な標準で知ることを止めるようになるという価値観が新しくなることです(16節)。そして、自己中心の生活から、キリスト中心の生活に変えられ(15節)、キリストの和解の使者として生きるようになるといった(20節)、生きる目的が新しくなるのです。
Ⅲ.キリストが造り変える
『だれでもキリストにあるならば(うちにあるならば)』とあります。
教育や訓練次第で変わる部分もあります。しかし、人間の外側を取り繕い、修業を重ねることによって変えられるほど、人間の罪とその性質は生易しいものではありません。人間的なシナリオで、その克服ができるものではないのです。
『それだから』と(16節)、十字架に死んでくださったキリストにある、即ちキリストに結ばれることによって新しく造り変えられるのです。私たちの『古いもの』全てが、キリストと共に十字架で死んでいる時に、キリストが『新しく』してくださるのです。
『見よ』、『すべてが新しくなった』とは、歓喜の言葉です。イエス・キリストによって新しく生かされる時、歓喜が湧かないはずがないのです。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)