柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ギデオンと三百人」 士師記7章1〜8節

 年が変わって三週間余りがたちました。私たち日本人は、新年のような「節目」を大切にする国民であるといわれます。ですからよく年の初めには様々な目標を立てます。それは信仰生活にもいえることであろうと思います。

 そのような中で、よく「今年は勝利した信仰生活を送ります。」という目標を立てることがしばしばあります。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。あるいは私たちの生活に於いてもそれは同様です。社会においては出世競争があります。あるいは家庭内においても様々な競争や戦いがあるものでしょう。学校生活においてもそれは顕著に表れます。信仰生活においても、誘惑との戦いがあるでしょうし、悪習慣や罪との戦い、あるいはサタンとの戦いといった具合に様々の戦いを私たちは経験します。そのような戦いに私たちは勝利していく必要があります。

 では、私たちがこのような戦いに勝利するためには、何が必要なのでしょうか。本日の箇所からこのことを見ていきたいと思います。

4節には「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。」とあります。特に「試みる」と訳されている言葉は、他の聖書では「えり分ける」とありました。またこの言葉の別の訳し方としては「火にとけて」(エレミヤ6章29節)、「火で練りきよめ」(詩篇105篇19節:新共同訳)とあります。ですから、私たちが戦いに勝利していくことのためには、天よりの火が必要であるということです。もちろんそれは、「焼き尽くす火」であるということです。

 では、勝利することのためには、私たちの何を「焼き尽くす」必要があるというのでしょうか。

 まず、「恐れ」が焼き尽くされなければならないということです(1〜3)。敗北感からの解放が必要です。「臆病の風」が取り除かれることが必要なのです。戦う前から足がすくみ、あるいは戦意喪失ということはあってはなりません。それは、主が勝利を約束されているからです。私たちの勝利は火を見るより明らかなのです。そのことはギデオン自身がまず取り扱われなければならないことでした(6章11節〜)。ギデオンも以前はミデヤン人の目を避けて酒ぶねの中で麦を打っていたのです。恐れにとりつかれていたのです。しかし、「大勇士よ、主があなたとともにおられる」とのみことばに触れ、勝利の主がともにおられる経験をしたのです。

 また、勝利するためには「高ぶり」が取り除かれなければなりません(2)。「自分が○○」というような思い上がり、高ぶりを取り除くために、主は32000人から10000人へと人数を絞ったのでした(2)。神がイスラエルを助け、また私たちをも選び助けられるのは、私たちに何かその条件に当てはまっているからではありません。そうではなく、それは主ご自身の栄光のためであるのです。敵に対する勝利は何よりも「主の勝利」なのです。「イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。」(エゼキエル36章22節)。

 もう一つ、私たちが勝利した信仰生活を送るために必要なことは、「敵前意識」をもつということです。私たちは常に敵に囲まれています。悪しき霊は常に私たちをキリストから引き離そうと躍起になっているのです。私たちがそのことを忘れたら、それは敗北への第一歩です。赤ちゃんは「そこに危険がある」ということは分かりません。何でも口の中に入れようとし、何でも触ってみようとするものです。しかし、親の声や自らの経験によって次第にそのような危険から離れることが出来ます。私たちの信仰もそのようなものであるかも知れません。最初は危険を理解できないかも知れません。しかし、周りの信仰の友や、何よりも主の言葉によってそこから遠ざかることができます。私たちは常にサタンとの戦いのただ中にあるということを忘れずに、信仰生活を送りたいものです。そこに、私たちではなく、主が戦って下さいます。その結果は「勝利」なのですから。
 「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」(歴代誌下14章11節)。
 
                 (西大和キリスト教会牧師:宮沢清志)