柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの勝利」 ルカ1章68-75節

クリスマスおめでとうございます。救い主イエス・キリストの誕生をお祝いすることができ幸いです。なぜなら、イエス・キリストは私たちを救うために来られた方だからです。
マタイの福音書では「ご自分の民をそのもろもろの罪から救われるかた」とあります。私たちの心の悩みや苦しみを知って下さり、慰めをあたえ、いやされ解決してくださる方です。
今から2000年前のユダヤの国はローマ帝国に支配され、国の自由はなく生活は苦しく多くの人は貧しさの中に喘いでいました。そんな中に、神様は救い主をこの地上に送ってくださることを約束されました。その預言の成就がキリストの誕生であったのです。


1,敵の手からの救い

その当時、ユダヤの民の大きな問題は、経済的貧しさとローマ帝国の圧政にありました。そして彼らは、国を回復し自分たちを豊かにする救い主メシアを待ち望んでいたのです。いわゆるヒーローの誕生です。イエス・キリストの誕生は、彼らの意に反して静かなものでした。ユダヤの田舎のベツレヘムの家畜小屋で産まれ、そこには羊飼いや東の国の博士たちが来るだけでした。華々しい誕生ではなかったのです。しかしそれは、旧約聖書に預言されたとおりのことでした。旧約聖書は私たちに大切なことを教えます。それは、神が語られたことが必ず成し遂げられるということです。旧約聖書新約聖書を照らし合わせて見るなら、神様は約束されたことを必ず実行されることを知ることができます。
ここで、ゼカリヤと言う人が預言しました。彼はイエス・キリストの先駆けとなったヨハネのお父さんであり、神殿で神に仕える祭司でした。彼は突然口がきけなくなり、ヨハネが生まれたとき再び話すことができました。その最初が「神である主をほめたたえよ」であったのです。彼は感謝しました。神が救ってくださること心から喜んだのです。
その中で、71、72節を見ると、「敵の手からの救い、われらの父祖たちにあわれみを施し」とありますが、旧約聖書で最も大きな救いはエジプトからの脱出であったと思います。エジプトの王パロは心かたくなになり、イスラエルの民をさらせませんでしたが、十の災いが下り、ついに民を放し、モーセによりイスラエルの民は奴隷と虐待の地であったエジプトから逃れることができたのです。
それにはまた、もう一つの意味があります。それは、神に敵対するサタンからの救いです。サタンはアダム・エバをそそのかし、神から離れさせました。私たちもまた、この世の主権者であり闇の支配者と言われるサタンの攻撃があります。それは肉眼では見えません。心の中に忍び込み働くものです。私たちの心をくじけさせ、神に従う意欲を失せさせ、私たちに疑いの思いを抱かせるものです。しかし、私たちをキリストから離すものはありません。艱難も苦しみも迫害も飢えも裸も、私たちをキリストから離すものはないのです。なぜなら、キリストは私たちを十字架で赦して下さり、代価を払って買い取って下さったのです。この間、祈祷会で学んだように「彼らは決して滅びることなく、わたしの手から奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)とキリストご自身が私たちを保証して下さっているのです。


2,キリストの勝利

私たちは、単に敵の手から救われるだけではありません。実は神様は私たちに特別な力を与えられます。69節に「救いの角」とありますが、それは神の特別な力を表します。ダビデの家に立てられた。と聖書は言っていますが、ダビデイスラエルの王であり、少年の頃ゴリアテ(身長約2.9m)という巨人と戦い勝利したのです。そして彼はイスラエルの王になりました。それはまた、私たちに対する勝利のしるしでもあります。
キリスト教の歴史を見ますと、迫害の歴史であったと言っても過言ではありません。日本の歴史の中にもそのことがあります。他の国でも、多かれ少なかれ迫害がありました。その最も大きな迫害はローマ帝国時代ではないだろうかと思います。しかし、その迫害の歴史の中でクリスチャンが戦ったり、反乱を起こして敵を殺害したというのは余り聞いたことがありません。逆らって人を殺すよりは、自らが殺される方を選んだのです。なぜかというと、イエス・キリストの生き方に関係があります。それは「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(?ペテロ2:23)にあるように、彼らはキリストに倣って生きていたのです。彼らもまた死に至るまで従順であったのです。私たちもまた、キリストの従順すなわち十字架の死によってゆるされ救われたことを信じ従いたいと思います。十字架の信仰は私たちに勝利をもたらすのです。
コンスタンティヌスは、313年クリスチャンのおもだった指導者たちを彼のもとに集めました。彼らはこれで自分たちも殉教のときがきたと心に決意を持ち、コンスタンティヌスのもとにやってきました。その中には迫害で目をえぐられたもの、両腕を切り取られたもの、片足を失ったもの誰ひとり五体満足な人はひとりもいなかったそうです。やがてコンスタンティヌスが現れ、彼らは緊張しました。すると何とコンスタンティヌスは、その中の一人の老聖徒に皇帝の冠をかぶせ、マントを着させ彼の前に跪き深々とお辞儀をして彼らの長年の信仰の戦いに敬意を払ったのです。そして、かれはミラノで「キリスト教の寛容令」を発布して、信仰が公に認められるようになったのです。そこにキリストの勝利が与えられました。
信仰は戦いです。私たちの日々も実は戦いなのです。世の主権者、闇の支配者サタンとの戦いです。彼は私たちを堕落させようとします。キリストから離そうとします。しかし、私たちはキリストにあって勝利します。キリストは私たちの生活を、その十字架により、助け主御聖霊によって、きよく、正しく、恐れなく神に仕えるものにして下さるのです。


                           (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)