柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神より生まれる」 ヨハネ1章9-13節

今日からアドベント待降節)の三週目となります。クリスマスの日付は聖書には記されていません。
大切なのは日にちではなく、キリストは何のために来られたかと言うことです。


1,人を照らす光として

イエス・キリストの弟子ヨハネは、「すべての人を照らすまことの光」と言いました。イエス・キリストは私たちの心を明るく照らしてくださる方です。ヨハネ福音書8章を見ると姦淫の罪を犯して訴えられてきた女の話が出てきます。そのときにイエス・キリストは「罪のないものが石を投げなさい」と言われ、だれもいなくなりました。キリストは彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。決して罪を犯してはなりません」とゆるされました。しかしその後で「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)と約束されました。
私たちが明るく生きる秘訣は、私たちの罪を赦し解放してくださるイエス・キリストを心の内に持つ、すなわち信じることです。
キリストが家畜小屋で産まれたことも意味があると思います。私たちが生まれるなら、きれいなところで、設備の整った安心のできるところで生まれたいと思います。おそらくは、家畜小屋で産まれたいと思う人は一人もいないと思います。しかし、キリストは貧しい汚い家畜小屋で産まれたのです。その原因は11節に出てきますが、この世の人は受けいれなかったのです。あのマリアとヨセフが旅をしてきてベツレヘムに着き、産気づき生まれそうでしたが誰も部屋を貸してあげませんでした。この世とは薄情なものであり、冷たいものです。
その現実の中に、キリストは生まれました。それは、私たちを愛し、その苦しみの中から救うためです。ですから、キリストは最低の生活の中から生まれました。しかも、そのあといのちを狙われてエジプトに幼いながらも逃げなければならなかったのです。そして、帰って来てからもナザレの大工の子として30年の生涯を過ごされ、3年半の後十字架につけられたのです。それは、私たちの苦しみや悲しみを共に担い、私たちのすべての過ち失敗、罪を身に負いゆるすためでした。私たちを闇から救い、光のある人生に導くためにキリストはこの世に来られ、暗闇にある私たちを明るく照らしてくださるのです。


2,神により生まれるため

真の神様を信じる人の数は今もそうですが、昔も多くありませんでした。イエス・キリストの生まれたときもほとんど多くの人は神を信じなかったのです。しかし、そうした中にも神を信じる者はいました。受けいれる人もいるのです。受けいれるならば、12節を見ると特権が与えられるとあります。どんな特権かというと、天国に入れるという特権です。おそらくは、古今東西多くの人が天国に入ろうと努力してきたと思います。良い行いをすることや、道徳的にまじめに生きることや、一生懸命努力することなどで天国をめざそうとしました。しかし、人間の力で天国に入った人は一人もいません。月にまで人間を送り、宇宙ステーションを作る科学技術があっても、人間の力で天国には行けないのです。
イエス・キリストは「人は新しく生まれなければ神の国(天国)を見ることはできません」と言われました。それはヨハネの3章に出てくる話ですが、ニコデモは理解できませんでした。しかし、後に彼は人生が変わりました。キリストが十字架につけられた後、ヨセフというキリストの弟子と共に、没薬もって葬りをしたのです。あの老人の博学であり国の指導者の一人であった人も変えられるのです。
信仰とは、人間のがんばりではありません。13節を見ると、生まれつきの賜物や、個人の願い、要求によるのではなく、まったく神によって新しく生まれるものであると言っています。この福音書を書いたヨハネもまた、十字架によって新しく生まれ変わりました。ボアネルゲ(雷の子)から愛の使徒と呼ばれるひとになったのです。彼もまた神によって新しく生まれた人です。12節にあるように、ただキリストを心に受けいれる、その名を信じるだけで、その特権が与えられるのです。
イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、十字架にかかってくださいました。すべての栄光をすて、私たちを愛する故に、救いの光を与えるために来てくださったのです。私たちも、このキリストを心に迎え、信じて、新しく生きるものとさせていただきたいと思います。

                  
                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)