柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「二つの時の狭間で」イザヤ52:1-15,第1テサロニケ5:1-11

きょうは一年最後の主日ですが、教会暦では降誕節第1主日です。

この世のカレンダーは、この日が良くてあの日が悪いなどと言うことを考えるわけですが、教会の暦が問題とするのは“日”ではなく、神の約束であり、歴史的事実であり、それはイエス・キリストご自身です。

イエス・キリストは、2000年前に「すでに来られた方」でありますが、同時に聖書は、彼を「再び来られる方」として証言し、わたしたちはそれを待ち望んでいるのです。ですからこの季節は、旧約聖書<待望の預言>が成就したことを感謝しつつ、さらに救いの完成という意味で、旧約時代の人々と同じように、わたしたちも<再び来てくださる主を待つ>姿勢を整える時なのです。

わたしたちの世界、そしてこの教会時代は、二つの決定的な出来事の間に置かれていると言うことを再確認するのが、この季節になすべきことなのです。

主の日の礼拝のたびに使徒信条を通して、「罪の赦し、体の甦りを信ず」と告白しています。それ自体、わたしたちは二つの出来事の間に生きていることを告白しているのです。そしてそれは、イエス・キリストは、「すでに」来て下さった方であると同時に、「いまだ」おいでになっていない方であることを告白しているのです。

そこで、この二つのときの狭間に生きる者の生き方について考えて見たいと思います。旧約時代は、いまだ実現していない約束を待ち続けることでしたが、教会は、すでに来て下さった主を喜び、次に、まだ来ておられない再臨の主を待ち望むのです。そこできょうは、イザヤの預言を通して、すでに来て下さった主を喜ぶ者の姿と、いまだおいでになっていない主を待つ者の姿を学びます。

わたしたちの経験の順序から言えば、すでに来て下さった主を喜び、まだおいでになっていない主を待ち望むのですが、預言書の順序に従ってお話を進めますと、まず先に、救い主を待つ者の姿です。
イザヤ書のきょう朗読していただいた箇所は、イスラエルに対して、解放のときの到来を告げる箇所です。これを聞くのはバビロンで捕囚の中にある民であり、カナンの地で同胞の帰還を待ち望んでいる人々です。


 1.さめよ、さめよ

預言者「さめよ、さめよ」と呼びかけます。これはイザヤ51章9節・17節・52章1節に、三度繰り返されています。
「さめよ、さめよ」という呼びかけは、救い主を待つ民に対する呼びかけです。そして彼らは「酔っている 51:21」と警告されます。
17節には「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」と記されています。
この時、イスラエルの民は、不信仰と反逆のために神の裁きを受け、バビロンで捕囚の民となります。他国に支配された彼らは、故郷を奪われ、自分を見失い、心も体も自立できないで、ふらつき、よろめき、倒れて土にまみれます。その様子を預言者「酔っている」と言います。
そのような姿の民に「見よ、わたしはあなたの手から、よろめかす大杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことは無い。51:22」というメッセージを預言者は語ります。すなわち捕囚から解かれて祖国に帰ることが出来るというメッセージです。そしてエルサレムに残っている民に向っては、「あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。52:1」と、祝いの準備をするように勧めます。
このイザヤ書の中にわたしたちの現実が描かれているのです。バビロンにおけるイスラエルの民が、心も体もバビロンの現実に酔わされ、足をふらつかせ、倒れているように、わたしたち信仰者も、この世の現実に酔わされ、今が幸せと思い込まされ、この世の習慣と楽しみに心奪われては居ないでしょうか。再び来てくださる主を待つ者として、今こそ「さめよ、さめよ」と語られる神のことばを聞くべきではないでしょうか。
時代の風潮の中で、教会も物質文明に毒され、この世がすべてと言うような気分で居るとすれば、それは大変な思い違いです。
この季節は<覚醒>のときです。教会暦によりますと、いつもこの季節にはテサロニケの手紙が朗読されるのですが、そこには、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚ましていなさい。第一テサロニケ5:6」と、再び来られる主を待ち望むように勧められています。
今は、再び来てくださる主を待つときであり、救いの完成に向ってしっかりと目を覚ましているべき時であることを、この待降節にあたり確認しましょう。

わたしたちの救いは、物質的なものではなく、この世における幸せでもなく、再び来てくださる主によって完成される永遠の救いです。
従ってこの世にあってはいつも旅人であり、寄留者であることを忘れてはならないのです。アブラハムはどれほど祝福されても、それで満足せず、そこに安住せず、生涯天幕で生活することによって、旅人・天のふるさとを求めている者であることを表明しました(ヘブル11:9)
今の時代は、よろめかす杯、憤りの杯を飲まされているような時代ではありますが、「見よ、わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。51:22」と言われているように、主の救いによって満足するときが来ているのです。ですからこの世の物に酔わされず、しっかりと再び来てくださる主に信仰の目を向けるときとしましょう。


 2.良い知らせを伝える者の足

次に、すでに来て下さった主を喜ぶ者の姿が記されています。
預言者「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、何と美しいことよ。52:7」と語っています。預言者による解放の預言は、カナンの地にあって同胞の帰還をひたすら待ち望んでいる人々に伝えられます。これはこの上ない喜びと希望の福音でした。
この解放のおとずれを祖国にもたらした使者の足は、長い道のりを走り、泥にまみれて汚れていたに違いありません。しかし、それは「何と美しいことよ。」と、よきおとずれをもたらすための労苦は、その福音のゆえに祝福されるのです。
わたしたちは、この時代の重荷にうめきつつも、すでに「救い主は来られた」と知らされ、そして今また「主は再び来られる」と信じる者とされているのです。
パウロは、このイザヤの言葉をローマ書10章15節に引用しています。
彼は、捕囚からの解放を告げる使者と、キリストの福音を伝える使者としての自分と重ね合わせているわけですが、今わたしたちもパウロと共に「救い主は来られた」と信じ、「主は再び来られる」と言う「良い知らせを伝える者」とされているのです。
ふたつの決定的出来事の狭間に生きる教会として、またキリスト者として、この世の物に酔わされず、よろめかず、いつも目覚めて、再び来てくださる主を待ち望むと同時に、すでに成就された救い、キリストを伝える者としての生活が期待されているのです。


                     (説教者:六甲みどり教会牧師  岸本 望 師)