この世は弱肉強食の世の中です。しかし、神様は弱いものにもいのちを与え用いて下さいます。そのことをテモテの手紙を通して学ぶことができます。
1,祝福の源
テモテは、パウロの実の子どもではありません。おそらくパウロの伝道旅行で救いに与り、その後パウロと行動を共にし、若くしてエペソの教会の監督となった人です。
彼はパウロのような強さはありませんでしたけれども、そのパウロは自分の子どものように親身に接し、信仰の励ましを与えています。
私たち教会にいるものは何によって結ばれているかというと、イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの信仰の基礎、土台であるといえます。言うなれば、キリストなしには私たちの礼拝も、交わりも、私たち自身の生活さえもむなしくなるのです。しかし、逆に他の何も十分なものがなくても、キリストがおられるなら十分であり、満ち足りたものとなるのです。
頑強であったパウロも晩年は病に苦しみました。目の病気を患っていたと言われています。彼はいやしを求めました。しかし、目は良くなりませんでした。そんな彼に神様は「私の恵みはあなたに十分である」(?コリント12:9)と言われたのです。パウロは神に感謝しました。それが信仰の秘訣です。
信仰の源である主イエス・キリストから恵み、あわれみそして平安が、流れる川のごとく豊かに与えられるのです。
2,神の救いの計画
信仰の世界においては偶然のものはありません。すべては神様の不思議な計画の中にあるものです。テモテがパウロに会ったのも偶然ではありません。その後テモテは伝道者、教会の監督となってエペソの教会で奉仕することも偶然のことではなかったのです。すべては、神様の御旨の中になされたことであるのです。
私たちは、なかなか神の御心がわかるというのが難しいのです。今の私たちには聖書があります。しかし、テモテへの手紙が書かれていた時代には私たちが手にしているような聖書はまだありませんでした。使徒たちの教えを聞く以外にはなかったのです。ですから、そこには偽教師や”違った教え”を語るものも少なくはなかったのです。ですから、私たちが今、聖書を読めることは大変感謝なことです。もっと私たちは聖書に親しむものでありたいと思います。
偽教師たちは、旧約聖書に出てくる話に、付け加えをして空想話にしたり、神様の話よりも人間の系図のことを説明する、救いとはかけ離れた話をするようなものもいたのです。今日でも、キリスト教と言いながら、キリストの救いを否定する教えを語っているものもいます。私たちの救いは、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって救われるのです。
3,愛を目標とする
クリスチャンは何のためにいま生きているのかと問われるなら、「愛を目標にして生きています」、と答えられると思います。なぜなら、私たちが救われたのは神の愛の故によるものです。聖書には愛―アガペーという言葉がよく使われます。主体性を持った愛です。単に自然的に発生して、またなくなっていくというような弱い愛ではありません。言うなれば、命を捨てる、最も大切なものをも犠牲にしてまでも愛するという愛です。
まさに、それはキリストの愛です。キリストご自身も神の栄光を捨てられただけではなく、私たちを救うために、同じ弱い人間となって下さり、しかも、うその証言で裁かれ、むち打たれ、あざけりとののしりを身に受けられて、身代わりに死んで下さったのです。
パウロは復活のキリストに出会い、人生が変えられました。救いに与り、更にキリストを宣べ伝えたのです。その信仰のバトンをテモテに委ねました。彼もまた、キリストの愛に捕らえられて、エペソでの伝道に励んだのです。私たちも同じです。この地において、与えられた信仰を持って、主に仕え、キリストを証しするものとさせていただきましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)