柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「何のために」 マタイによる福音書1章18〜25節

 聖書全体のメッセ−ジは垂直的です。クリスマスの出来事も例外ではなく、『聖霊によって』とあります(18,20節)。まさに、クリスマスは主なる神が造り出されたといえます。

 ところで、キリスト降誕の意味と目的は何なのでしょうか。そして、その意味と目的が今日の私たちにどういう関わりがあるのでしょうか。それは、『イエス』(21節)と『インマヌエル』(23節)との二つの名に明らかにされていますが、両者は互いに結びつき、同様のことを意味しています。


Ⅰ.神が「わたしたちと」共にいてくださるため

 「イエス」と名づけられたのは、人間の根本的な救いである『もろもろの罪から救う者となる』ためでした。罪こそ、私たちを神から引き離し、その結果価値観を狂わせ、人格を曲げ、良心を萎縮させて行動を麻痺させ、あげくは人と人の関係を歪めてしまいます。聖餐式において確認することですが(マタイ26章28節)、キリスト誕生の目的は、十字架にかかり、血を流し、その血によって罪を赦すためだったのです。
 「インマヌエル」と呼ばれたのは、『神われらと共にいます』との預言が成就するためでした。神と共にいることができないのは罪だけですから(イザヤ59章1〜2節)、その罪を取り除くために、神の方から救いの手を差し伸べられたのです。そして、十字架にかかられ、復活され、高く挙げられたイエス・キリストが、「いつでも」「どこでも」一緒にいてくださるのです(マタイ28章20節)。
 このことが明らかになれば、人生の目的ははっきりとしてきます。


Ⅱ.「わたしたちも」神と共にいるため

 『神われらと共にいます』とは、人格的な交わりを意味しています。本来、御父と御子と御霊の三位の神は、永遠に妨げられない愛の交わりをもっておられました。ところが、御子はその交わりを断ち切って十字架の救いのみわざを成し遂げてくださったのです。その結果、私たちは三位の神との交わりを回復させていただいたのです(Ⅰヨハネ1章3節、7節)。
 ところで、マリヤの受胎の事実を知らされたヨセフは、悩み苦しみます。『正しい人であった』ので、ひそかにマリヤと離別し、彼女を結婚者の義務から解くことを考えました。まさに、その時に神が介入されたのです。そして、告げられた事実に対して、信仰によって従ったのです(24節)。このように、神が人の世界に介入されるとき、苦悩や不安が生じることがありますが、それは新しいことの始まりであり、苦悩や恐れで終わらないで、神の恵みと結びつくみわざがなされるのです。そのとき、「われらも神と共にいます」との信仰の自覚となってあらわれます。「我ひとり苦しむのではなく神と共に、我ひとり死ぬのではなく神と共に、我ひとり生きるのではなく神と共に」との歩みとなるのです。
 私たちがキリストによって新しく生まれ変わらせていただいた目的は、私たちも神と共にいるためでした。そのことを感謝し、神と共にある人生を肯定し、主のみことばへの忠実を貫き、主に従う幸いに生きる者とさせていただきましょう。


                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)