柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「預言されたクリスマス」イザヤ書7章1〜14節

 この箇所は、今から2700年以上も前、キリスト降誕にさかのぼってもの700年以上も前に預言された言葉です。世の中に、偉人といわれる人たちは数多くいます。また、宗教の開祖やカリスマといわれる人たちも多くいます。しかし、キリストがそれらの人たちと大きく異なる点の一つは、キリストはその誕生の既に数百年も前の時代から、既に聖書によって預言されていた、ということです。私たちは、この「預言されたキリスト」が、どのような人物として預言され、また現在の私たちはその預言をどのように理解するべきなのでしょうか。

 時はアハズがユダの王として治めていた頃のこと。名君ウジヤが死んで、その子ヨタムも早くして死に、思いもかけずにその子アハズが若くして王位についた時でした。「若い」というだけでもアハズにとってはどれほど不安だったことでしょうか。
 右も左も分からない若いアハズ王は、更なる困難に襲われます。それは「シリヤ・エフライム連合軍」がユダに攻め上ってくる、ということでした。どの一カ国をとってみてもユダをはるかに凌ぐ国力を持った国です。それが二カ国も連合して上ってくるということにたいして、ユダのみでは太刀打ちできないことでした。人間的な力を遙かに超えた「想定外」の出来事でした。もう、若いアハズにとってはにっちもさっちもいかない事件だったことでしょう。

 しかし、主はイザヤを通して語られました。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。」(4)と。「気をつける」とは、「注意する」ということです。これは、外敵の襲来に注意するということではなく、そのような外敵の襲来に対して自らがそのように対処するのか、すなわち自らの内的な部分に対して「注意する」ということでしょう。「静かにする」とは、そのような外敵の襲来に対して何か自らが行動を起こす、ということではなく、静かに座することでしょう。また「恐れてはならない」とは、旧約聖書の中だけでも50回以上も用いられている言葉です。

わたしたちはしばしばこのような励ましを他人から受けることがあります。もちろんそれらは一種の配慮をも含んだ励ましです。しかし、それらの言葉に反してしばしば人間的な「励まし」の結果は「裏切り」「絶望」であることがあります。しかし、主の「恐れてはならない」は、ただ言葉だけで終わるのではなく、その「しるし」が伴った言葉であることに注意する必要があります。それが14節です。「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」

 「おとめがみごもる」処女が身ごもるということは人間的には考えられないことです。しかし、そのような人間的に考えられない出来事を、主のイニシアチブでなされたのです。更にそのようにして生まれた子は「インマヌエル」とよばれる、というのです。マタイによる福音書には「「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」(1章23節)とあります。神が私たちと共にいる、というのです。それが「恐れるな」ということの理由でした。神が私たちと共におられるから、私たちは恐れる必要はないのです。全能の神、天地の創造者である神が私たちと共におられるのです。

 それが「みどりごイエス・キリストです。クリスマスは、私たちと共におられる神が、人となってこの世に来られた出来事です。それも、人間から世話をされなければ死んでしまう弱いみどりごとして来られたのです。このクリスマス、私たちは「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。」といわれた神を思い巡らし、その神がみどりごとして来られた意味を思い巡らしつつ歩む日々でありたいと思うのです。

                (説教者:西大和キリスト教会牧師 宮沢清志)