柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「石はすでに」    マルコの福音書16章1-8節

イ−スタ−礼拝

 死者の復活、それは信じがたい出来事です。それは何も今日の人だけではなく、キリストの弟子たちやその周辺にいた人たちも『信じようとはしなかった』(11,13,14節)のですから、そこにある人間の本質的な限界を知ることができます。そんな中、不信と恐怖の中にいた婦人たちに、『ところが』と主イエスの復活の事実が伝えられました(4〜7節)。それはどういう出来事だったのでしょうか。


1.大きな「石」が取り除かれた出来事
 復活は、大きな石がころがしてあった、ということに象徴される出来事でした。それは、私たちの上にのしかかっている、どんなことをしても、また誰も取り除くことのできない死の支配からの解放されることを象徴しています。それは肉体の死だけでなく、『罪から来る報酬は死です』(ロ−マ6章23節)とあるように、罪の支配の中にいる死の状態からも解き放たれることです。
 罪と死が「私の」主人ではなく、十字架で死んで罪を購い、その死から復活されて死に勝利された主イエス・キリストが「私の」主人となって支配してくださるという神の救いにあずかることが大切です。それがあってこそ、死もまた栄光の花道となるのです。


2.神が「すでに」なされた出来事
 主イエスの十字架と復活に現された神の救いは、人間が成し得なかったことを神の側で成し遂げてくださった所から出発しています。その神の救いを、自分の小さな考えで、常識で、知識で、経験で信じることは不可能です。『目を上げて見ると』すでに取り除かれていることを、信じ仰ぐ、仰ぎ続けるのみです。
 それにしても、御使いの語ったなかに、『行って、お弟子たちとペテロに・・・言いなさい』と(7節)、弟子たちにペテロも当然含まれているのに、わざわざ「ペテロに」と名ざしで言われていることは注目すべきです。『前に言われたとおり』とは、『14章28節』で言及されていることですが、それはペテロが主イエスを否定した場面につながる箇所であり、そのことを悔い改める機会を失っていたペテロに主イエスが回復のチャンスを与えようとしておられる恵みの招きなのです。ペテロだけではなく、「私に」も問いかけておられます。
 そして、『先に・・・行かれます』と言われるイエスの後姿を拝しつつ、主イエスについて行くという信仰の原点であり、また使命の地に招いておられます。これもまた「私に」対する招きです。
 「私ごとき者が」、いかなる時も信仰者として主の恵みの中を生かされ続け、永遠の望みを持ち続け、さらに主イエス・キリストを慕って愛し続けることをゆるされていることを思うときに、主にあって労苦することは、決して無駄でないのです(?コリント15章58節)。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)