柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「御手に支えられて」マルコの福音書13章1-13節

 マルコの福音書13章は、ヨハネの黙示録と比して「小黙示録」と呼ばれ、主イエスが「終わりの時」について事実上最後の説教を語られたところです。
「終わりの日が来る」とは、キリスト者だけではなく、今日でも多くの人々が受け止め、受け入れ始めている危機意識です。主イエスは明確にそのことを語られたのでした。
 その発端は、ソロモンの神殿の再現のために、建設中であったヘロデの神殿の壮大さに感嘆する弟子のひとりに対して、主イエスが予告されたことによりました。その問いかけに水でもかけるかのように、この神殿はやがて崩される時が来るという、まさかと思うようなことでした(1〜2節)。それに対して、弟子たちが『いつ・・・どんな前兆が・・・』(3節)と問いかけていますが、主イエスは『最後まで耐え忍ぶ人は救われます』と語られました。重い響きをもって聴く言葉であるとともに、果たしてそんな勝利する力が私自身の内にあるのか、と自問せざるを得ません。
 ここには、「わたしだ。わたしか耐え、わたしが担い、わたしが支えるから」と語っておられる主イエス・キリストのお声が聴こえてきます。

1.しっかりと立つ 1〜8節、9節前、12〜13節
 この終わりの時とは、紀元後70年のロ−マ軍によるエルサレム包囲・陥落・神殿破壊・離散という歴史的事件を指すと同時に、この世界の終わりの時をも語られたのです。そして、人に惑わされないように、自分のことに、『気をつけなさい』(5、9節)、「見つめ続けなさい」(原意)との警戒を語られました。
 終わりの時の前兆が語られています。それは、偽キリストの出現(6節)、戦争や民族的・国家的対立(7〜8節)、それと関連しての自然秩序の混乱と破壊です(8節後)。『これらのことは、産みの苦しみの初めです』と、陣痛は苦痛ですが、やがて待ち望んでいた子供の出生という喜びがあるように、神の約束を信じる者にとっては単なる苦悩ではなく、喜びに至る過程としての苦しみです。さらに、キリスト者への迫害があり(9節前)、キリストの弟子であるために国家や民俗から、また無理解や誤解から家族からも憎まれることがあります(12〜13節前)。
 このような事態に対して、だれが耐え得ることができるでしょうか。事実、この三日後に、このメッセ−ジを聞いていた弟子たちは、主イエスを捨てて、最後まで耐えるどころではなかったのです。『最後まで耐え忍ぶ』とは、主イエスによって、その御手に支えられて「しっかりと立ち続ける」のです。そのことをペテロは、体験的に証言しています(?ペテロ4章12〜19節)。聖霊に導かれ、また満たされていることを体験するのはまさにこの時であり、主への信頼が生まれるのです。

2.福音を宣べ伝える  9〜11節
 『こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません』(10節)との「ねばならない」は、主イエスご自身が十字架の死と復活を語る時にも用いられた言葉です(8章31節)。神ご自身と神のみことばをないがしろにしている罪の解決は、主イエスの十字架がなければなりません。人類最大の敵である死の唯一の解決は、キリストの復活がなければなりません。この福音はどうしても伝えなければなりません。福音は聴かれなければなりません。福音によって救われなければなりません。
 この福音宣教を推進してくださる力の源泉は『聖霊』ですから(11節)、聖霊によって与えられる喜びをもって証しさせて下さるのです。
 「主よ、今、私はあなたを(あなたのお心を)理解できません。でもあなたを信頼することができます」とは、多くの聖徒の祈りです。こうした信仰は、主の御手に支えられ、聖霊による以外にしかありません。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)