パウロがコリント人への手紙で最初に取り上げた教会の問題に対して、「十字架がむなしくならないために 17節」と言っています。口語訳では「無力なものになってしまわないため」と訳されています。
1.十字架がむなしくならないために
このことは、この手紙全体にかかることばでもあります。教会を建て上げて行くために、常に心がけるべきことは、キリストの十字架がむなしくならないようにと言うことです。教会における問題の解決には、小賢しい人間の知恵を用いたり、この世の判例に従ったりするのではなく、この一点に定めて、ゆるすこと、受容することをもって対処すべきなのです。
自分の面子を保つことや、立場を守ることに汲々として、ゆるすこと、受け入れることを忘れてしまうと、自ら経験した十字架の赦しを否定することとなるのです。
十字架の赦しのめぐみが体験される教会は、その恵みを互いの交わりの中で再現することによって、十字架の力をこの世にあかしするのです。
2.十字架の言
ですから「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」ということばは、聖書全体を代表する宣言でもあります。
ゴルゴダの丘には三本の十字架が立ちました。いずれも犯罪者の十字架と見えたのですが、真ん中の主イエスの十字架は、他の二本の十字架とは比較にならない大きな力を秘めていました。
主イエスの十字架には隠された意味があります。メッセージがあります。神の意志があり、人を救うという宣言があるのです。ここに救いがあると語っているのです。このことばを聞くことが重要なのです。
3.滅びか救いか
救いの宣言があると言うことは、一方に滅びがあると言うことです。人はみな罪人です。ところが人は、罪人であることを認めつつも、滅び行く者であることには気付いていないのです。罪があると言うことは、その責任を問われることであり、償いができなければ滅びると言うことを知らなければなりません。
十字架はそのことを語るのです。罪に対する責任は果たされ、もはや滅びることはないと宣言するのです。このことばを愚かとして聞き流す者は滅びるしかないのです。しかし、信じる者にはその力が働いて救いになります。
今や、わたしたち主イエスを信じる者の生活を通して、「十字架のことば」が語りだされなければなりません。赦された者としてゆるし、受け入れられた者として受け入れる教会の交わりを通して、「十字架のことば」がほとばしり出るように、十字架を愚かとする世界のただ中でしっかりと生きるべきなのです。
(説教者:柏原教会協力牧師 岸本 望)