柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主の目ざし」  ルカ22章54-62節

今日はシュロの日の日曜日です。ヨハネ12:13を見ると、イエス・キリストエルサレムに入られたとき人々はシュロの枝を沿道に敷き歓迎しました。その彼らは、1週間も立たないうちに、十字架に付けろと叫び、キリストは十字架に付けられ殺されたのです。人間はあてになりません。弱いものであり、頼りにはならない事を教えられます。ここでは弟子のペテロを通して、それでは私たちはどうなのか、救い主イエス・キリストはどうされるかが分かります。


1.人の弱さ

確かにペテロは三度うそをつき裏切りました。しかし彼はイエス・キリストと出会ったとき、網を捨てて従った人です。そして私をだれと言うかとキリストに尋ねられ「あなたこそ、いける神の子キリストです」と答えたのです。それほど彼は主を愛し、また信じて従った人なのです。また最後の晩餐の席で、「獄屋にも死に至るまでもついて行きます」と言ったのです。
そのようにすばらしい一面、また弱さをもった人でした。信仰が弱くなる原因をここで三つ見つけることができる。

(1)中途半端な信仰。
遠くから離れてついて行ったとあります。全く離れるのでもなければ、そば近くにいるのでもない。つかず離れずの信仰でです。黙示録3:14にラオデキヤの教会が出てきます。「冷たくもなくあつくもない。あなたはなまぬるい。それこそ、口からはき出したい」と神様は言われます。中途半端な信仰は私たちの心を徐々に弱めます。

(2)信仰を隠してこの世の人と交わる。
ペテロは何と、大祭司の中庭でたき火をし、そして大祭司の家の者と共に交わっているのです。詩篇1編1節に「幸いなことよ。あざけるものの座につかなかった、その人」とありますが、彼はまさにあざけるものの座に一緒にいて、交わっていたのです。私たちもこの世で、同じように世もものと調子を合わせていくと、神を信じる信仰は弱くなっていってしまいます。ロマ12:1「この世と調子を合わせてはいけない。神の御心は何かを知るために。心を一新しなさい」と勧められています。目を覚まさなければならないのです。

(3)人を恐れてうそをついた。
女中の言葉にもおびえ、知らないとうそをつき、二度ならず三度も知らないと言ってしまいました。それがペテロのありのままの姿でした。それはまた、私たちの姿ではないでしょうか。

強いようで弱いのは肉の元気です。自分を強いと思っているものは弱いものでり、自分の弱さを認めて神により頼む人が本当に強い人です。聖ゼロームは「ペテロは聖霊を受けていないときは、女中の声にも戦慄した。しかし聖霊を受けて後は、敢然として王者の前に立つことができた」と言いました。
?テモテ1:7に「神が私たちに与えて下さったものは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」とある通りです。
私たちも力と愛とつつしみの聖霊に満たされる必要があります。


2.神のあわれみ

イエス・キリストの弟子は12人いましたが、とりわけペテロは主イエスをだれよりも愛していました。仕事も家族も全てを捨てて、神の子救い主と信じて従ってきたのです。主もまた、ペテロを愛されました。まただれよりも、彼を用いられ、大事な場面でも主イエスは彼をともなっておられるのです。
大祭司の庭で「あのペテロはどうしたんだろうか。死に至るまでもついてくると言ったが、どうしているだろうか」と主イエスが心配されている中に、後ろの庭のほうで騒がしい声が聞こえた。その中に紛れもなく、ペテロの声が聞こえました。そして、そこには、大祭司の僕たちとたき火を囲み、彼らの質問に知らないと三度答えたペテロがそこにいたのです。主は後ろを振り返り、ペテロを見つめられました。ペテロの姿を見たとき、おそらく主イエスは「ペテロよ」と声をかけたかったに違いありません。しかし、「声をかけたら自分との関係がばれてしまい、彼も自分と同じ運命を共にしなければならなくなる。かわいそうに」と思って、声をかけられませんでした。ただ、後ろを振り向いて、ペテロを見つめられたのです。その目差しはなんと優しかったことかと思います。その目には、ペテロの哀れを思う、憂いはあったでしょう。しかし、彼を決してとがめてはいません。「ペテロよ、三度まで私を知らないと言ったが、それで失望してはいけないよ、気を落としてはいけない。望みをなくすなよ」とその声なき声が、赦しの目差しがペテロに注がれました。
ペテロも主イエスを見ました。そのとき目が合ったのです。
そして、ペテロの目に、主イエスの愛の目ざしをとおして、心の中に光が差し込んだのです。そして「彼は、外に出て、激しく泣いた」とあります。さもあったろうと思います。ペテロは、イエス様の一線の目ざしを受けただけで、たまらなくなりました。「鶏が鳴く前に三度私を知らない」と言う主イエスの注意の予告がよみがえりました。「私は何と恐ろしい人間か。あんなに大きなことを言って。なんと私はうそをつき、大きな罪を犯したことか」彼は外に出て、激しく泣いたのです。
ペテロは心砕かれて、激しく泣いたのです。しかし、その主の目ざしは、今私たちに注がれています。「主よ愛します。主よお従いします」と祈りますけど、弱いのです。力がない、誘惑を振り払うだけの力が無いのです。「おいおまえそれでもクリスチャンか、キリストの弟子か」と言われることがどれほどあったか分かりません。あのペテロのように、遠く離れてついて行くようなものです。見えつ隠れつ主にお従いしているようなものです。
そんな私にも、主は目をとめて下さいます。振り返って目をとめて下さるのです。まともに従っているなら、振り向かれる必要はありません。後ろに見え隠れしながらついていくから、振り替えざるを得ないのです。主イエスは罪を犯したペテロをも、偉大な使徒に造りかえて下さいました。
どれほど、失敗してもかまいません。つまずいて倒れても良いのです。主を信じてもう一度、立ち上がることです。罪を犯しても、もう一度悔い改め、新しく主の愛にすがり、これから後、信仰と希望に輝いて、主にお従いして生きたいのです。
主はなおも私たちに目をとめて下さいます。砕かれた心を持って主の愛におすがりしたいと思います。


                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)