柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストは変えられる」 第2コリント5章17節

今はちょうど年度替わりの時ですが、私たちの心も新しくされて、新年度を迎えたいと思います。
新しくなりたいと思っても、なかなか変わらないのが人間の心ではないでしょうか。明治の知識人福沢諭吉翁は、飲酒で生涯に大損をしたと告白しました。大阪で学んでいた頃、禁酒しようと誓ったそうです。すると親友の一人が感心し、ほめましたが、彼は「人間何か一方に楽しみがなくてはかなわない。酒の代わりにタバコはどうだ。」と勧められ、タバコ嫌いだった諭吉は、一ヶ月我慢してタバコのみになってしまいました。ところがあるときものの弾みでちょっと一杯、酒を引っかけました。それが止まらなくなった。それどころかタバコもやめられない、ついに両刀遣いになり、彼は一言の弁解もないと言ったそうです。だれでも自分で自分を変えることはできません。
しかし、一人だけ人間を変えることのできる方がおられます。それは、人間を造った神様です。
旧約聖書エレミヤ書があります。エレミヤは神の預言者でした。あるとき彼は陶器師の所に行けと神様に言われます(エレミヤ18章)。彼は陶器師の所に行きました。陶器師は粘土をこね、ろくろを回し、陶器を作りました。しかし、ちょっとした弾みで手が滑り、陶器がゆがみました。陶器師はそれを手に取り、ぐちゃぐちゃにつぶしもう一度丸めてろくろの上に置きました。そしてろくろを回し、もう一度新しく作り直したのです。作る人はもう一度作り変えることもできるのです。
 聖書を見るとキリストが万物の創造者、つまり全てのものを造られた神だということが分かります。それで聖書の疑問が解けます。なぜ、病人を癒すことができたのか、それは全能の神だからです。なぜ湖であらしに遭ったとき、波風を静められたか、それは彼が創造主だからです。彼が神でなければ、そうしたことはできません。
 もし、私たちが、自分が新しくなりたい、変えられたいと願うなら、キリストの力が必要です。キリストが私たちを新しく造りかえて下さいます。
 そしてもっとも大切なことはキリストを信じることです。この聖書の箇所では、キリストのうちにあるならと言っています。それは、キリストに全てをお任せする。キリストの愛に包まれている、ということなのです。それがキリストを信じるということです。
 キリストを信じるとどうなるのか、キリストは私たちを救って下さいます。悪癖を止められるようになるのです。悪習慣を止める力がキリストにあるのです。キリストは私たちを困難の中から、苦しみから救い出した手下さる方です。私たちが苦しみから救われ、平安喜びが心からわき上がり、自然と笑みが出てきます。暗い顔しろと言われても、救いの喜びで笑顔が出てくるのです。だれでもキリストにあるなら、新しい喜びで心が満たされてきます。
南米エクアドルの奥地に住むアウカ族はかつて、非常に凶暴な人たちでした。アメリカの5人の宣教師が彼らの所に行きました。しかし、5人全員1,956年1月8日槍で突き殺され殉教したのです。しかし、その二年後その奥さんと妹がその現地に赴き、自分の夫、兄を殺した人たちにキリストの救いを伝えました。そして彼女は、宣教師たちは銃を使わず、救いを伝えるため喜んで死んでいったことを伝え、自分たちも愛していることを伝えました。すると、アウカ族の襲撃した人たちは、それを聞き、涙を流して悔い改め、イエス・キリストを信じて救われました。なんと襲撃したリーダーはその後、牧師になったのです。そして、彼らは、部族間での争い戦争、殺人を止めました。嬰児殺しの悪習慣も終わりました。
村の一人の青年はこのすばらしい福音を伝えるために隣の部族の所に行きました。しかし、彼は槍で殺されました。しかし死の間際に「イエス様は僕を愛している。そして僕は君たちを愛している。喜んで君たちのために死ねる」と言って死んだそうです。その死の様を見た村の人たちは、福音に心開き、救いに導かれたそうです。
だれでもキリストにあるなら、心は新しくされます。憎しみや恨み、怒りの心も、聖書は古いものは過ぎ去ったといっています。それらの、否定的な心、罪はキリストによってなくなるのです。過ぎ去ってしまうのです。
そしてキリストは私たちに新しい心、信じる心、愛せる心、許せる心を与えて下さいます。
なぜならキリスト自身が、十字架の上で、私たちを愛し、赦し、受け入れて下さったからです。
そのキリストによって、私たちは新しくなるのです。


                      (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)