柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい粉のかたまり」 第1コリント 5:1〜8

第5章は、パウロがコリントの教会に対して、わたしたちが想像もしないことを指摘することから始まっています。
不品行と言いますが、「父の妻を妻にしている者がいる 1」とは何のことでしょうか。父の妻を妻にしているとは穏やかではありません。同様のことが創世記にも記されています。これは、当時の一夫多妻の制度の下で起こったことであって、その制度がどのような罪を生み出していたかと言うことを物語っています。
ところでパウロはなぜこのようなことを語らねばならなかったのかということを考えなければなりません。彼がコリントの教会に語ろうとしていることは、不品行のこともそうですが、それと同時に、「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。2」と、問題はコリント教会の高ぶりということでした。
教会の実態を考えれば、もっと悲しむべきはずなのであって、「あなたがたの高慢は、よくないことです。6」とも記されています。


1.高ぶり

コリントは、町全体が堕落したようなところですから、教会の内にこのような問題があっても、なお高ぶっていたのかもしれません。しかし、それだけでなく、高ぶりは人間の本質的な部分の問題だと思われます。
人間にとって、最も困難なことは、高ぶることをしない、ということではないでしょうか。人間のいちばんの弱点は高ぶることにあります。
ところで教会とは、キリストに習って謙遜な生活をするところです。キリスト者を特徴づけているものは謙遜です。ここではコリント教会のお話ですが、同時にわたしたちに対する言葉でもあります。何があっても教会は、主のように謙った生活をすることが求められているのです。


2.不品行

では不品行の問題はどうなのでしょうか。教会は、何の汚れもないところではないかも知れません。罪人の集まりであれば、何が起こるかもわからないものでもあるでしょう。しかし、そのことと神の裁きとは別です。教会は、愛による交わりの生活であると言って、愛の名の下に、神が許されないことを行ってはならないことは、言うまでもありません。
パウロは、遠くに居ながら厳しくこのことを処分しようとしました。それは教会というものが、そういう清さを持っていなければならないものだからです。
ではどのように裁くのでしょうか。それは何かの規則によってではなく、信仰によってこれを処理しようとしているのです。
その目的は、その人の魂が救われるためです。罪を犯した者もまた、救われるようにということこそ、教会の一切の業の願いです。しかし、そのためには具体的な裁きが行われることも止むを得ないことです。


3.新しい粉のかたまり

具体的に不品行について触れたパウロは、再びはじめの問題に触れます。それは高ぶりであり、「あなたがたの高慢は、よくないことです。6」
と警告します。そしてそのことについて身近なパン種を例にします。
パン種は、パンを膨らますものです。これを用いてパウロは、人間が膨れ上がって誇る生活を説明します。
少しのパン種がどれほど大きくパンを膨らませるかは誰でも知っていることです。そして、同様にパン種のような小さな高ぶりの思いが、人間の生活を大きく変えて行くことを、聖書はたびたび警告します。コリント教会の人々が膨れ上がったのは、そのちいさなパン種のような高ぶりの思い、あるいは不品行の習慣のためだと指摘しているのです。
コリントの町には、不品行をさしたる問題としない傾向があったのでしょう。それがパン種となって教会全体を膨らませ、影響を及ぼしていたのです。
しかし、教会は、この世の交わりと異なり、新しい交わりを形成しています。すなわち新しい粉のかたまりとなっているのです。小さなパン種が粉のかたまり全体を膨らませるように、この世の小さな習慣や価値観が、教会の中に持ち込まれることによって、教会という新しい粉のかたまり全体にそれが影響を及ぼすこととなるのです。
そこで、真に新しい粉のかたまりとなるためには、古いパン種を取り除くようにと警告します。その論拠は、教会とは「パン種のないものだからです。7」と語ります。そしてパン種のない根拠は「私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです。7」と言います。
キリストが十字架に死んでくださったことによって、罪のパン種は取り除かれ、きよい者とされたのが教会です。罪が取り除かれたということは、不品行や高ぶりのパン種は無くなったはずだということです。
「過越しの小羊(出エジプト12章)」と言いましたが、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出する夜、彼らはパン種の入っていないパンを焼いて食べたのです。それは、過越しの小羊が身代わりとなって死ぬことにより、彼らのエジプトにおける罪と汚れが取り除かれたのですから、エジプトの習慣を捨てて、新しい粉のかたまり、純粋なイスラエルの民として結束することが求められたのです。
ちょうどそのように、教会は、キリストの十字架によって、罪から救われた新しい粉のかたまりですから、この世の習慣や罪のパン種を取り除いた、パン種のない粉のかたまりとなるようにと勧めているのです。
最後に「祭りをしようではありませんか。8」と呼びかけています。
イスラエルは、あのエジプト脱出のとき以来、この時を新年としてこれを記念し、新年のたびに<過ぎ越の祭り>と呼んで、パン種の無いパンを食べて祭りを行ったのです。
<祭り>とは礼拝のことです。自分たちをエジプトから救い出してくださった神を覚え、神に感謝して礼拝を行ったのです。祭りですから喜びのときであったと思います。喜びの礼拝を行ったのです。
パウロ「祭りをしようではありませんか。8」と言うのです。教会は、気難しいところではなく、喜びに溢れたところと考えていたのです。罪の赦しが与えられ、不純物が取り除かれ、きよい交わりとされたのですから、喜び溢れて当然でしょう。それがキリスト者の礼拝なのです。
わたしたちの交わりが、主の十字架の恵みを喜ぶ群れとなり、この世の罪の不純物を取り除かれた、きよい粉のかたまりとなって、喜びの内に主を礼拝する交わりとして成長するように祈りましょう。
わたしたちの内にあるパン種、すなわち信仰以前のさまざまな習慣や価値観、そしてたかぶりや嫉み、不品行、怒り、憤りなどを、聖霊によって取り除いていただいて、真に新しい粉のかたまりとしてひとつにされ、主を喜びつつ歩みましょう。
子羊が屠られたことによって、イスラエルのエジプト脱出が実現し、新しいイスラエルが誕生したように、キリストが十字架に死んで下さったことによって、罪のパン種が取り除かれた清い新しい群れが誕生しました。それが教会です。
ペンテコステに弟子たちは聖霊を受けて新しい結束を与えられ、宣教の働きへと歩み始めました。まさに出エジプトの再現であったと言ってもいいでしょう。教会とは、この世の罪の交わりからの脱出によって誕生したのです。それはパン種の無い新しい粉のかたまりとなるためでした。新しい粉のかたまりとされたことを自覚し、この世の価値観を排除して、主を喜びつつ前進しましょう。


                        (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)