柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストにあって生きる」エペソ2章6~10節

 教会と聞くと建物をイメージする人が多いと思いますが、聖書に出てくる教会は建物よりもキリストを信じる者の集まりであり、キリストのからだが教会であると言えます。
 今日の聖書の箇所でカギになる言葉は「キリスト・イエスにあって」という言葉です。 クリスチャンとはある意味、キリストによって生かされている者、キリストなしには生きていけない者と言えるかもしれません (使徒 11:26) 。

1,キリストにあって復活する
 クリスチャンの希望は、病気が治ったとかお金が儲かっただけのものではありません。永遠のいのちが与えられ、復活の希望が与えられていることです。この希望は失望に終わることはありません。イエス・キリストがよみがえ られて以来 、今日まで変わっていません。しかも創造主なる神様は、私たちをも「キリスト・イエスにあって」よみがえらせて下さると約束されています。そしてただ生き返るだけの話ではありません。

パウロは「ともに天上に座らせてくださいました」と言っています。
彼はまだ天国には行っていません。牢獄の中にいます。しかし信仰において彼は、キリスト共に神の栄光の座にあることを信じていたのです。信仰とはまだ得ていませんが、すでに与えられたと信じるのが信仰です。 ある方が重い病気になって、祈りましたが、祈り続ける中に「癒やされた」と確信が与えられた。そしてその後、本当に癒やされたと聞いたことがあります。信仰の先取りです。「既に与えられたと信ずれば、得べし」と言うことです( ヘブル 11:1) 。

ですから、パウロは獄中にあっても 、 彼の心は天国でした。天の御座にキリストと共にいる大いなる栄光・輝きが彼の心に与えられ、それが彼の希望となり喜びとなったのです 。

2,キリストにある慈愛
 そしてもう一つは、キリストにある慈愛です。キリストが慈しんで下さる。「慈しみ深き友なるイエスは」と賛美歌にもありますが、イエス・キリストは慈しみ深い方です。その最大の表れは十字架です。「友が友のために命を捨てる。これよりも大いなる愛はない」とキリストは言われましたが、その通りに私たちの身代わりとなり十字架に死んで下さいました。身代わりに死んだだけなら、単なる美談ですが、キリストがよみがえられたことは、美談で終わったのではなく、7節にあるとおり「来たるべき世々に示す」ことでした。

すなわち過去の時代も今の時代もそしてこれからの新しい時代においても、キリストの慈愛、十字架にかかって罪を赦して下さる恵みは、限りなく豊かに与えられるのです。これもまた、キリストが死からよみがえられたから、与えられる恵みなのです。そしてこの恵みは実に、信仰によって得ることができるのです。行いではありません。ただ信じるなら与えられます。それが神の恵みであり、賜物 プレゼント なのです。私たちはいつもキリストに愛されている、そのような者でありたいと思います。

3,キリストにあって造られた
 10 節に「神の作品」と あります。私たちは神によって造られた者です。初めから、私たちにはそのような意識はありません。信仰によって、そのことは受け入れることができるようになります。この「 作品 」 のギリシア語は英語の詩ポエムと語源が同じです。詩も作者の思いや感情などが作品に込められています。

パウロは「キリスト・イエスにあって造られた」と 言っています。彼自身、キリストによって新しく造られました。彼は 迫害者でした。しかしキリストによって愛の宣教者に変えられた のです。 「 だれでもキリストにあるなら、新しく造られたものである 」 (Ⅱコリント 5 : 17)と言っているのは彼の体験です。キリストによって彼は新しくなりました。「良い行い」とは人間的な行いではありません。

道徳的に正しいとか、行儀がよいとか、人との約束を守るというような、人間的な基準ではありません。むしろ、神様に喜ばれる、神の御心にかなうことを行うことです。それが「良い行い」なのです。

 私たちはキリストにあって愛され、キリストにあって生きる者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)