柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「十字架の主に直面して」マルコの福音書15章21-41節

 主イエスの十字架は、苦難と神の審きが極限に達した場でした。それは、偶然のことではなくて、神の必然でした(8章31節)。主イエスは、それを父なる神のみこころとして進んでいかれたのでした。
 さて、主の十字架の場に居合わせた多くの人々は、そこに向かって立っていたのですが、それは今日の私たちが、どこに向かって立っているかを問うものです。


1.負って下さった十字架に直面する 39節
 『イエスを十字架につけた』(24,25,27節)との出来事を目の当たりにしていたペテロは、後日『・・・そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・』(?ペテロ2章22〜24節)と証言しています。私たちの罪を十字架に持ち運んで、ご自身をささげ死んでくださったのです。その十字架上で、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(34節)と主イエスは叫ばれました。ここには、父なる神が下される怒りと容赦のない審きを主イエスが受けてくださっている事実があります。さらに、本来この審きを受けるのは、罪人である私たち一人ひとりであるという事実を伝えています。そして、本来その審きを受ける必要のなかった主イエスが身代わりとなって受けてくださったゆえに、もう私たちは捨てられることがなくなったという事実が明らかにされたのです。
 この十字架を取り巻く人々の中で、道行く人々や宗教家や十字架につけられた犯罪人は一応に、ののしっています。これは、主イエスを見下している姿です。ロ−マの兵隊たちは、くじ引きでイエスの着物を分け合うことに関心を向けるという、言わば主イエスに背を向けています。しかし、そんな中で、十字架の身近な所にいて『イエスの正面に立っていた』のがロ−マ軍人の『百人隊長』でした。罪を負ってくださる主の十字架の真正面に立っています。そして、先入観や偏見にとらわれないで素直に、『この方はまことに神の子であった』と告白しています。
 昔と今と神の義と愛が変わることも、人間の罪深さが減ることもありません。私たち一人ひとりは、主イエスの十字架に真正面に向き合う以外にないのです。


2.負う十字架に直面する 21節
 十字架を背負って引き回されておられる主イエスの十字架を、『むりやりに』に負わされたのが、クレネ人シモンでした。彼は十字架をゴルゴタまで運び、主イエスの十字架の死のお姿を最後まで見守り、その出来事を見聞きし、ついには主イエスを信じる信仰者となり、その信仰が家族たちに受け継がれ、感化を与えていたようです(ロ−マ16章13節参照)。無理やりに背負わされた十字架は、神の恵みが拡大されるものとなったのです。
 『背負わせた』との同語が、『・・・十字架を負い・・・』(8章34節)であり、十字架を負わせていただくことにわが身を置いて、正面からむかうときに、主イエスの愛の大きさの中に引きずり込まれていくのです。
 ここでの十字架を負うとは、人生において一般的で不可避の重荷や困難のことをいっているのではありません。もし避けようと思えば避けることのできるものですが、主イエスのために、福音のために、喜んで、意識的に、時に強いられて負わせていただく十字架です。この十字架を負わせていただくとき、主の愛の大きさを深く洞察させていただく最良の経験となるのです。しかも、全ての責任をもって主イエスが完成してくださることを経験するのです。

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)