柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「復活の主を見る」 使徒行伝7章54-60節

 私たちの主イエス・キリストは、死からよみがえり、今も生きておられるお方です。そして、『生ける者と死ねる者とを審きたまわん』との告白のとおり、人は皆よみがえり、主なる神の前に立たなければなりません。そのときのためにも、そのときのためにこそ、キリストによる救いが必要なのです。
 さて、新約聖書中でキリストの死は除いて、ひとりの人物の死を(殉教)こんなに詳細に描かれた箇所はないのではないでしょうか。『主は彼の聖徒の死を高価なものとされる』(詩篇116篇15節、米国訳)とありますが、主が支払われた贖いの高価さのゆえに、聖徒たちの価が神の前に数えられているのです。
 キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステパノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています(54節)。その時ステパノは、復活の主を見ていたのでした(55〜56節)。復活と昇天の後のキリストが『立って』おられると記す唯一の箇所ですが、御国に迎え入れられることを見る者の慰めがあります。

Ⅰ.キリスト信仰の勝利者  59節
 『天を見つめていると』とは、絶えず「主なる神」を信じ仰いでいるということです。そこには、御使いの顔ように輝いてた姿がありました(6章15節)。
その結果として、復活の主を見ることができたのでした。聖霊は、人々の憎悪や問題の中にあっても、復活の主を見させてくださるのです。私たちは、日々に見つめているものは何でしょうか。
 『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』とは、十字架の主の最後の言葉と同じです(ルカ23章46節)。十字架において、そしてご復活において完全に成し遂げられた救いのみわざに、罪と死に対して勝利された事実に、全く信頼している祈りです。それを信じる者に与えられている救いを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、罪ゆえに、私の存在が打ち消されることはないのです。復活のキリストを見る時、死のゆえに、私の人生が終わるということはないのです。

Ⅱ.キリストに似る証人  60節
 さらにステパノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しています(56節)。それに対して人々は、聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57〜58節)。
 そうした中からの執り成しの祈りがささげられています(60節)。主イエスの十字架上の第一言と相通じます(.ルカ23章34節)。私たちは、主イエスがなされたような奇跡をすることはできません。しかし、主イエスが十字架において罪を赦して罪なき者としてくださったように、全く同じことではないのですが、人を赦すことをさせていたたげるのです。そこに「赦す力」が生まれるのです。
 復活の主を見続ける者は、短命である長寿である、安らかであるなしといった死に様にかかわりなく、地上の使命の終わりを迎えた時、それは「死」ではなく『眠りについた』のです。埋葬地において眠りについたという不確かなものではなく、主イエスの罪に対する勝利と復活のゆえの喜びと平安、そして滅びることのない新しいいのちが永遠に続く希望を表わしている言葉です。
 自らも、そして周囲にいる人々も、この道一筋であれ!

                   (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)