柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの権威」マルコによる福音書11章27節-12章12節

 「権威」との言葉は煙たがられ、個人の自由と権利を侵す敵と見なされがちです。しかし、本来「権威」というのは自発的な同意や服従を促す力や関係のことであり、相手の同意に関係なく脅しや罰則などにより無理やり服従させる「権力」とは別物と言えます。権威の喪失が権力の行き過ぎを生み出したり、自分以外に権威を認めないという身勝手な自己中心主義となったりしています。
 さて、この受難週第三日目の出来事は、キリストの権威に服する人生に生きることを問いかけています。

Ⅰ.キリストの権威の根拠

 ユダヤ最高議会の三役揃い踏みの代表者が、自分たちの権威を無視され踏みにじられていると受け止めたために、『何の権威によって・・・だれが、そうする権威を授けた』かと、権威の根拠と由来を問いただしています。それに対して主イエスは反問されました。結果彼らは、神からと言わない不真実さを、人からと言わない身勝手さを暴露しました。要は、キリストの権威の根拠や由来がどこにあるにせよ、主イエスを認めようとしない、排除しようとする、自らの権威と世界を守ろうとしがみついている頑なな姿があります。『わかりません』との彼らの返事には、分からないのではなく、分かろうとしない、結論を出したくないというのが本音でした。それに対して、主イエスが『言うまい』と応じられたのは、逃げられたのではなくて、何を言っても彼らには無駄だと拒絶されたのでした(11章27〜33節)。このように、主イエスに入り込んでもらっては、自由にふるまってもらっては困る、出て行っていただきたい、そうでなければイエスを亡きものにしたいと願うのが罪人の姿です。
 そうした問答の中で、説明を要しないほどの譬えをもって、キリストご自身の権威の根拠を明らかにされました(12章1〜12節)。全てを備え、裏切られ辱められても諦めずに手を差し伸べられるとは、何と深い忍耐の伴った神の愛と恵みでしょう! 貸主に納めない約束の反故、遣わされた者を辱め殺すという頑固と強情、愛子を殺し委託された管理者であることを忘れて自らが主人になろうとする貪欲、何という罪でしょう! そして、神の厳粛な審判! 神の恵みに生かされ、建て上げ広める『家造り』であるべきユダヤ人指導者たちの『捨てた石』こそ、十字架のイエス・キリストです。このお方が復活され、『隅のかしら石』となられて、その上にキリストの教会が建てられたのです。『不思議に見える』この神の救いの事実こそが、キリストの権威の根拠なのです。

Ⅱ.キリストの権威こそ土台

 私たちは皆小さな権威を持っています。父親の権威、母親の権威、教師の権威、牧師の権威といったものです。これらは大事にしなければなりませんが、主イエスの権威の支配に服するところから生まれる健全な権威であることが求められます。従って、自分の理性・良心・常識・思想・知性・経験・健康、また偉大な人間などを人生の権威としてはなりません。これらは罪のゆえに絶対ではなく、変わりやすいものだからです。キリストの権威こそ人生の土台であることが必要です。
 そして、変わることのない永遠の基盤は、イエス・キリストの十字架と復活の救いであるのですから、死によって信仰者の人生は終わらず、打ち切られないのです。時に、大きな仕事に取り組み、意義ある仕事に取り組んできた人が晩年を迎えて、「自分の人生の土台はいったい何だったのか」という虚しさと不安と焦りに襲われることがあります。そのように、想定外のことが起こるのは、自分の人生の権威、変わることのない土台を求める機会なのです。
 キリストご自身を土台とし、神の権威あるみことばに聴き従ってよく生きることこそが、最も幸いなのです。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)