教会のⅤⅠP(最重要な人の)席は、どこでしょうか。それは、一人ひとりが座っている席です。『わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節、新改訳聖書)とあるとおりです。
「雅歌」の内容は、直接的には男女の愛・夫婦愛の輝かしさを歌っています。旧約的には、主なる神とイスラエルの民の愛の型です。新約的には、キリストと信仰者の愛の型です。本日の箇所には、今日の私たちに何を語っているのでしょうか。
Ⅰ..ナルドの香り
ナルドは、インド原産の木からとれる、それは良い臭いのする高価な香料、臭い油のことです。ベタニャ村でひとりの女が、三百デナリ(約10ケ月分の賃金)という高価な香油を主イエスの頭に注いでいます。五千人の人々を養うパンは二百デナリ(約7ケ月の賃金)であったことを思うと、出し惜しみしない愛が現れています。そして、このナルドの香油は、その部屋いっぱいに香りを放っただけでなく、今日までただよい続けています(9節)。
私たちの存在もそのようでありたいものです。存在と生活が、周りに幸い・安らぎ・喜び・感謝・祝福をただよわせるナルドの香油のようであれば、そしてそれが永遠に残る香りであったら、どんなに幸いなことでしょう。人は誰でも、確かなお方に愛されていたい、確かなお方に結び合わされていたい、そして確かな永遠につながることを成し遂げたいとの聖なる願望があります。
Ⅱ.王の着座
そのような香りは、『王がその席に着かれたとき』放たれたのでした。私たちにとって王とは、どなたでしょうか。そして、そのお方はつくべき席に着座しておられるでしょうか。
一般に良い王と言われる人には、四つの役割があります。主権を持って、全てを支配する人です。その権威によって善悪を正しく審く人です。敵を倒し、その民を安全に守る人です。民の必要に豊かに応える人です。私たちの王の王は、万物の創造者であり、支配者であり、守り、支え、豊かな供給者です。
しかし、主なる神は真に「王」になられるために、手をこまねいて着座されているお方ではありません。『なんのために・・・こんなにむだにするのか』(マルコ14章4節)との問いを本来受けるのは、イエス・キリストでした。その最大の無駄こそ『葬りの』(同8節)とあるように、十字架の死を通して、そしてその死から復活されたことを通して「王」となられたのです。この事実を通して、イエス・キリストこそ王であることを明らかにされたのです。
『栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王』(詩篇24篇)であられるお方が、実際に私たちの心と生活と人生の王座を占めておられるでしょうか。否、自分が王座を占め、時には自分の都合のいいように、王なる神に命令しているようなことはないでしょうか。それは悪臭を放つ以外の何ものでもありません。さらに、『王がうたげの座に着いておられる間』(新改訳聖書)と王座におられ続けるなら、愛の香り、喜びの香り‐‐‐が私たちからただよい続けるのです。イエス・キリストをⅤⅠP席にお招きしておられますか!
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)