皆さんは「教会」というと、何を連想されるでしょうか。よく、「笑点」という番組で「○○とかけて△△ととく」「そのこころは……」という質問がなされます。ここで、私は「教会とかけて交差点ととく」としたいのです。そして、その解答がこの箇所に述べられているのです。
1.悲しみの葬列
場面はあるやもめのひとり息子の葬列から始まります(12)。この葬列は「やもめのひとり息子」の葬列なのです。聖書の時代は、女性はあたまかずに入っていませんでした。ですから一家のあるじがいないということは、その家庭にとっては悲劇だったのです。しかも、唯一の男手であるひとり息子がいよいよ亡くなってしまったとあってはこの女性の悲しみはいかばかりかと思うのです。
私たちの人生にも、ある日突然このような悲しみがやってくることがあります。唯一の理解者である家族も誰もいない、そして町から出て行くしかない、そんな時があるかも知れれません。
2.喜びの行列
しかし、そんな時、このやもめは一組の行列に出会ったのです。主イエスを中心とする大勢の行列でした(11)。主はそのようなやもめの姿を見て、深い同情を寄せられるお方です(13)。この「同情」とは、「はらわた」という意味があり、単なる薄っぺらい人間の同情ではなく、はらわた痛むほどの主の思いが込められている言葉です。しかも、主は棺に手をかけて下さるお方でもあるのです(14)。日本人は、「ハレ」と「ケ」をもった文化であるといわれるとおり、死という事柄に関しては「穢れ」であるといわれます。しかし主はそのような死体にさえも自ら近づいて下さるお方であり、御声をかけて下さるお方なのです。
3.「悲しみ」から「喜び」へ
そして主はそのひとり息子を御言葉でもってよみがえらせて下さったのです。その時、やもめを中心とした悲しみの葬列は、主イエスを中心とした喜びの行列へと変えられたのです。
教会とは、まさにこのような場所です。その意味において、私は冒頭に「交差点」とといたのです。交差点とは様々な人々が行き交う場所です。悲しんでいる人、失意の中にある人、苦しみの中の人…。しかし、それらすべての人が、主イエスとの出会いを通して喜びの行列の中に加わることができる場所、それが教会なのです。しかも、それは主ご自身から近づいて下さる場所であり、神がその民を顧みて下さる場所(16)なのです。
(説教者:西大和キリスト教会牧師 宮澤清志)