柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストに生きる」2コリント5章14-15節

今年も7月となり、夏の様々な計画を立てておられる方もいると思います。人生においても計画を持つことは大切です。しかし、思うようにならないのが私たちの人生です。たとえ思うようにならなくても、喜べる人生・生き方があることをパウロは私たちに語っています。


1,キリストの愛に囲まれる

パウロ自身ははじめからイエス様を神として信じていたのではありません。むしろクリスチャンを迫害する人でした。なぜ信じたのか。それは復活のキリストにあったからです。キリストとの出会いによって彼の人生は変えられました。迫害する人生から迫害を受ける人に変えられたのです。彼は不幸になったでしょうか。むしろ彼は以前より幸せになりました。なぜなら、愛がわかったからです。以前はわかりませんでした。しかし、キリストを知って、苦しみが喜びに変えられることを体験したのです。彼はキリストの愛に取り囲まれました。それは、キリストの愛によって彼はコントロールされる、生かされる人になったからです。以前は、自分の考え・感情・意思によって行動していたのですが、イエス・キリストを信じてからは、彼の行動の源となったのは、キリストの愛によるものとなったのです。


2,キリストの十字架

イエス・キリストは私たちの罪を赦すために身代わりとなって十字架に死なれました。その命の代価によって私たちのすべての罪は赦されたのです。
それでは、赦された私たちはもう一度罪の奴隷となって罪を犯し続ける生活をすべきでしょうか。そんなことはないのです。罪から救われた人は、また罪の生活に戻る必要はないのです。14節の終わりには、「すべての人が死んだ」とあります。それは肉体の死ではありません。むしろ、自分のかたくなな自我が死んだと言うことです。自分の欲望や情がキリストと共に十字架に付けられて、死んでしまうことです。ローマ6:6に出てくる「古い人・罪のからだ」のことです。それが死んでしまうのです。死んでしまったら反応しません。誘惑や試みが来ても何も応答しないのです。死んでしまっているのです。「もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」とパウロは行ったのです。
3,キリストのために生きる
 彼はもはや、自我のため罪のために生きようとはしなくなりました。それでは何のためでしょうか。「自分のために死んでよみがえった方のために」と言っています。すなわちキリストのために生きるといっているのです。それが、彼の人生の秘訣でした。欲に支配されることなく、名声を求めることもなく、ひたすらキリストのために生きたのです。そして、彼だけではありませんでした。彼に続く人たちも、変えられました。コリントの人たちも彼の手紙を読んで変えられたのです。
私たちも、罪深い自己中心という「自我」がキリストと共に十字架に付けられ、自我は死んで、その自分に代わって、死の中からよみがえられたイエス様が、自分の心の王座に就いて下さり、十字架の愛によって私たちを導いて下さる。そのような生き方をするものとさせて頂きましょう。



  (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)