柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「豊かな刈り取り」2コリント9章6-13節

私たちは礼拝の中で献金をします。献金にはどのような意味があるのか、今日の聖書の箇所で献金の大切な意味を知ることができます。


1,神に感謝をささげる

11節に「神への感謝」を生み出す、とあります。献金の第一の目的は神様に感謝を献げることです。旧約聖書では、牛や羊など動物のいけにえが献げられました。今はそのようなことを私たちはしません。お金をもって神様に感謝を献げます。什一献金というのがあります。今は月定献金と呼ばれて袋も用意されています。自分に与えられたすべてのものの十分の一を献げるものですが、その精神は決まっていることだからというのではなく、むしろ7節にあるように強いられたり、いやいやながらではなく、喜んで献げるところに意味があります。
?コリント8章9節には、キリストの恵みが記されてあります。「主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられた、すなわち神の御子であられたのに、すべての権威・富を捨てて、しかもいのちまでも捨てて十字架にかかり、いのちを救って下さった。」その愛に救いに感謝を献げる、その応答が献金であると言うことです。ですから、献金は神様への感謝、十字架の救いに対する感謝の表れです。献金はしなくて良いものではなく、十字架の意味が解ればすべきでしょう。金額よりもむしろ、心です。神殿で多くの人が献金する姿をイエス様は見ておられましたが、貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を献げるのを賞賛されました。なぜなら、持っているもの全部を献げたからです。これほど大きい献げものはないのです。


2,豊かな刈り取り

6節に「少しだけ蒔くものは、少しだけ刈り取り、豊に蒔くものは、豊に刈り取ります」とありますが、それは自然なものです。たくさんの種を蒔くならば、たくさんの実がなります。しかし、神様の祝福はそれだけのものではありません。さらに自然の収穫以上に豊かな実を与えて下さいます。
それは、8節で「神様は私たちを満ち足らせて下さる、恵みをあふれるばかりに与えることのできる方である」と言っています。確かに、信仰の父アブラハムは、見ないで信じて知らない地に行きました。しかし神様は彼を祝福され、多くのものを与えられたのです。ダビデも、一介の羊飼いでしたが、彼は神に従ってイスラエルの王となり豊になりました。
聖書にある豊かさとは、単にたくさん持っている豊かさではありません。11節には、惜しみなく与えるようになるとあります。エリコのザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、ベタニヤのマリヤは、ナルドの香油を惜しみなくイエス様に注ぎ、ユダヤ人の最高指導者の一人ニコデモは、没薬30キロをもってイエス様の亡きがらを葬りました。彼らはみんな喜んで献げたのです。
「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」(箴言 11:24)とありますが、神様は喜んで与える人を愛し、10節には蒔く種を備え、それを増やし義の実を増し加えて下さると約束されています。そして感謝が生み出されるのです。ですから、献金は感謝の捧げ物です。喜びの捧げ物です。
当時、ユダヤでは飢饉と地震が起こりエルサレムの教会も大変な状況にありました。そしてパウロは、コリントの人たちにこの手紙を送り、愛のわざにあふれるものとなるようにと勧めたのです。第一の手紙を読んでコリントの人たちは悔い改め、第二の手紙を通してさらに主の愛に豊かなものと変えられていきました。
この手紙は、コリントの人たちだけでなく、私たちにも与えられています。12節に「この奉仕のわざ」13節に「このわざ」とあるのは献金をすることです。彼らは主に献げました。そしてエルサレムの教会を支援したのです。そのことが、クリスチャンたちを励まし、キリストの福音の立証となり、神が崇められるものとなりました。そのようにコリント教会は変えられ、すべての人に惜しみなく与える、神に喜ばれる者のなったのです。



       (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)