柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「成長させてくださる神」  第1コリント3章1-9節

 パウロはコリント教会の問題を取り上げつつ、教会とは何かと言うことを語っています。そして、教会がその立場を自覚して歩むように指導しています。


1.あなたがたはただの人たち
 コリントの教会の問題、その実情がどうであったかと言えば、「あなたがたは、ただのひとたちではありませんか 4節」と叱責を受けます。
 これはまことに不思議な言い方ですが、このように言われていると言うことは、教会は、「ただの人たち」の集まりではないと言うことです。何が“ただの人”でないのかと言えば、先に学んだように、教会は御霊を受けた人の集まりです。
 「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 2章12節
 コリント教会が「ただの人たち」と叱責された原因は何かと言えば、神が下さった恵みを悟ることをしないで、派閥争いに明け暮れしていたからです。彼らは、誰が一番愛されているかと言う、普通の人々と変わらない関心の中に生きていたのです。このパウロの叱責は、教会の関心、キリスト者の関心とは何かと言うことを考えさせます。


2.パウロとは何でしょう
 「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」と言うことは、パウロこそ神の人だ、いやアポロこそ神に仕える人だ、と言っていたわけです。
 そこでパウロは「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう 5節」と言います。そして普通の人とは異なった関心を示します。
 神に献身した者の関心は、人が自分をどのように評価しているかではなく、自分が果たして神に役立っているだろうか、と言うことです。その目はいつも神に向けられているのです。
 同様に、導きを受けた者も、恵みの主である神に目を向けるべきなのですが、彼らは「信仰に入るために用いられたしもべ」にのみ目を向けて、互いに贔屓しあっていたのです。
 ここには、教会の陥りやすい人物崇拝の危険が潜んでいます。「信仰に導いた人に過ぎない(口語訳)」とは言え、導かれた側としては当然のこと尊敬を抱きます。それが度を過ごして争いの種となったのでは、聖霊を悲しませるだけのことです。
 ですから、「主がおのおのに授けられたとおりのことをした 5節」のであって、「私が植えて、アポロが水を注いだ 6節」に過ぎないと言います。これは教会の働きを見事に表現しています。
 アポロも、パウロも、コリント教会のために神が備えられた器であって、それぞれがその分を果たしたに過ぎないのです。尊敬を勝ち取るために競い合うことではありません。同様に教会に遣わされた牧師は、神から与えられた分を果たすことが重要なのです。
 みことばを語る奉仕だけでなく、信徒の奉仕についても同様に理解することが重要です。教会が歴史を重ねる中で、それぞれの時代に奉仕する人々があり、その時代に奉仕する人を、神が立てて下さるのです。ですから教会は、特定の個人に依存することなく、お互いに、神に立てられた時にその分を果たすことが大切です。


3、成長させてくださる神
 そこで「大切なのは・・・・成長させてくださる神 7節」と言います。
 信仰を本当に育ててくださるのは神ご自身です。ですから、誰かに依存するのではなく、神に求めるべきであり、神に依り頼むべきです。
 コリントの教会の人々が、神に向かい、神に求めることをしないで、常に、ある人はアポロに期待し、ある人はパウロを当てにしていました。
 確かに導いたのはパウロであり、アポロですが、期待すべきは神ご自身であって、コリント教会の人々は、神に向かい、神に求めて信仰に成長することを期待すべきなのです。
 教会は、人に目を注ぐところではなく、神に目を注ぐところです。
 <人を見ると躓く>などと言いますが、躓くとか躓かないと言う問題ではなく、もともと人を見、人に期待することが、信仰の本筋から離れているのであって、教会は、神に目を注ぎ、神に期待するところです。神に期待しない信仰生活は成長しません。


4.あなたがたは神の建物
 しかし、信仰の成長は個人的に実現していくものではなく、教会の交わりの中で実現していくもののようです。それは「あなたがたは神の畑、神の建物です 9節」と記されていることに表されています。ここには教会の不思議が語られています。「あなたがた」とは教会のことです。
 信仰と言えば個人的なこと、神との個人的な関係だと考えられやすいのですが、そうではなく、神の畑、神の建物だと言います。
 「」と言えば、よく耕された土地にこそ、豊かな実りが約束されます。わたしたちの信仰の成長も、畑に関係があるのです。すなわち教会の交わりこそが成長の大きな要素です。教会の交わりを通して、信仰とは神に目を注ぐことだと学ぶのです。
 もうひとつは「神の建物」ですが、これもまた信仰が個人的なものでないことを教えています。信仰を持つと言うことは、神の宮として建てられると言うことです。
 信仰を持つことによって、神の命に結ばれると共に、同じ命にあずかった者たちの交わりに結ばれ、その交わりは、神の建物・神の宮として建て上げられるのです。それは目に見える建物ではありませんが、神の宮と言うのですから、それ神のお住まいです。教会と言うわたしたちの交わりの中に、神がお住まいになるのです。
 信仰に導かれる以前には想像もしなかった世界がここに展開されているのです。わたしたちは、人間的で個人的なことにのみ目を奪われます。しかし、成長させてくださる神に目を注ぎ、神の建物として完成されるために「ただの人たち 4節」のようにではなく、御霊を受けた者らしく歩み、分に応じて神に仕えましょう。

          (説教者:柏原教会 協力牧師 岸本 望)