柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの体」 1コリント12章14-27節

以前、教会とは建物ではないということを話しました。使徒パウロはここで体のことについて話をしています。それは教会とはキリストの体であるからです。教会は生きて活動するキリストの体です。そして私たちはキリストの体を構成する一つ一つの肢体なのです。


1,教会の多様性と統一性

教会にはいろんな人が来ます。一人として同じではありません。ある人は、もし教会がまったく同じ人の集まりであったら弱り果て死んでしまうだろうといいました。ある意味いろんな人が集まっているから面白いと思います。同じような人しか集まらないのなら、おそらくはつまらないものになってしまうのではないでしょうか。バラエティーに富んでいるのが教会の健全な姿であると思います。そして、どんな人も教会に加わることができるのです。
あのコリントの町は、貿易で栄えました。港町であり、いろんな人が行き来していました。自由人もいれば奴隷もいる、富んでいる人もいれば貧しい人もいる、そんな町でした。当然教会にも同じように、多様な人々がきたことだろうと思います。
その中で、一致するとは極めて困難なことであったとおもいます。いま、私たちもどうでしょうか。教会が一つ思いになることは重要なことです。これによって教会は前進するか、停滞するか、それとも後退してしまうか決まってくると言っても過言ではありません。
パウロは体の肢体をもって語ります。足は手でないから体に属さないとか、耳が目ではないから体に属さない、とは言えないのです。全部が全部、手だらけになったり、目ばかりになることはできません。それは人間の体ではなくなってしまいます。 しかし、時々似たようなことを聞きます。「私は○○さんの様に奉仕できない、とか○○さんの様にお祈りできない。」と言われることです。それは当然のことです。一人ひとりは、ちがいます。信仰の先輩にならって信仰に励むことはすばらしいことですが、その人と同じようにしなければならないと言うのは間違いです。まして、「私はそのようにできないから信仰の失格者だとか、私は教会で必要のない人間だ」と考えるのは大きな間違いです。18節を見るならば、「神はみこころにしたがって」それぞれを造ってくださったのです。神こそは私たちの創造主であり、私たちに責任を持って養ってくださり、成長させて下さる方なのです。
体に様々な器官がついて機能を果たしているように、教会では私たち一人ひとりが、ともにいることによって集まることによってキリストの体―教会はなり立っているのです。
ですから、手が足に向かってあなたは私と同じようにしないから要らないとか、頭が足に向かってあなたは必要ないとは絶対に言えないのです。お互いが大切な存在なのです。


2,キリストにある調和

教会は強い人、できる人の集まるではありません。もちろんそれに越したことはないのですが、弱さを覚える人もいます。そして聖書は、その人は「なくてはならない」と私たちに示しています。パウロもまた弱さを覚える人でした。彼は目の病気を患い、また激しい伝道旅行や、迫害投獄で体は衰え、手が震えて手紙が書けない状態でした。彼はいやして下さいと祈りましたが、体はいやされませんでした。しかし神様は彼に「私の恵みはあなたに十分である」と答えられました。彼はこの御言葉によって立ち上がったのです。そして、彼は「私を強くして下さる方によって何事でもできる」と確信をいただいて前進しました。
私たちもそうなりたいと思います。それはできます。自分が弱いと分かる人は神様に頼ります。祈り求めます。神様はまた私たちに、パウロと同じように応えて下さるのです。
私たちの間に、神様は働かれます。私たちには信仰による一致と「調和」があります。調和とはもともと、混ぜ合わせるという意味からきています。メリケン粉の粉を水で溶くと最初はぶつぶつですが混ぜ合わせるとなめらかになります。
それは、キリストの愛によって私たちは混ぜ合わされるのです。教会の土台は十字架です。キリストが私たちを十字架で赦して下さり、神の子として下さった。この土台がなければ教会は立ちゆきません。コリントの教会はパウロの手紙を通して、もう一度十字架の土台を確認しました。そして、体に血液が行き巡るように、聖霊は私たちの内に働かれ愛のみわざをなされます。25節の「いたわり合う」とありますが神の愛を現しています。語源では心配すると言う意味がありましたが、弱い人をことさらに心配してくださるのが神の愛です。いたわり合い、助け合う、それが教会のすがたです。お互いにキリストの愛に満たされて実行するのです。ですから私たちは、一部が痛めば全部で痛みを感じ、一部が喜べば全部の喜びとなるのです。

私たちはキリストにあって一つなのです。

            (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)